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クリスチャンの婚活(4) 結婚において主を持ち出す責任 [クリスチャンの婚活]

クリスチャンとの結婚でよく思い出す話がある。5年も前のことだ

うちの教団には毎年一回修養会がある。近隣の兄弟教会が一つの教会に集まり
礼拝、賛美、それが終ると分かち合いが始まる。分かち合いとはティータイムみたいなもんである。

修養会が開かれた教会の牧師の回りに各教会の青年達が集まった。みなそれぞれ色々話をした。

私が「教会の若い子からいろいろ結婚についてもちかけられるんですよ」といったら
「うちの教会に今日は来てないですけどいい青年がいますよ」と言った。

牧師曰く、堅実な仕事につき、スキルを高めるために資格の学校に行く勉強家で
心根もよく誠実で真面目で優しい青年であるらしい。
牧師は神学的・信仰的にも申し分なく、信仰のリーダー格として内外の尊敬を集めている人物である。
いい加減な人物評をする人ではない。
近くで話をしていた別の教会の女性達が色めきだつ。顔には出さないが興味深々といった風情だ。

写真があるというので、見せてもらった。
なるほど、イケメンである。背も高く精悍な顔立ちのリア充系で顔に卑しさがなく優しげである。
クリスチャン男性には珍しいタイプだ。

イケメンイケメンとかくが、私ははっきり女のブスも男のブサイクも嫌いである。
内面を裏切る外見はなく、外見を裏切る内面もない。
病気でもない限り、牧師が牧師夫人がぶくぶく太るなどありえないとすら思っている。

言っておくがここでのブス・ブサイクはありきたりの顔の造作の云々をといているのではない。
他人にブス・ブサイクと感じさせてしまうその意識の低さ・徳の薄さが問題なのである。

はっきりいってそこの牧師夫人はイマイチ、いやイマサンぐらいの顔の造作であった。
しかも体に障害がありうまく動くことはできない。
しかし私は夫人を一度もブスだとは思ったことはなかった。思わせない何かが彼女にはあった。
信仰の深さ、愛情の深さ、内面、気遣い、笑顔、明るさ、どれをとっても第一級の女性である。
心より尊敬している。
何十年も貧しい時から牧師を支え、複数の子供に恵まれ、
子供は大学に進学、献身するという祝福を授かっている。

しかし、その牧師が所属している教会は20代~30代の独身女性が多く、
ピーチクパーチク皆日ごろから結婚したいといっていたはずだ。現に今だってみこころの人の話をしている。

大体このレベルの若者ならとっくにふさわしい「みこころの人」がいてもおかしくないのだ。
多少イケメンで定職があったなら、しかも性格もよいときたら女性信徒達の争奪戦がはじまる。
「別に彼女がいるのか」と聞いたら、現在募集中とのことらしい。
その教会の女性達の顔を見ると、どうにもバツが悪そうである。
なんかおかしいと思った時、牧師が言った。

「親御さんが生まれつきの視覚障害者なんですよ。家族思いでよくサポートなさってます」

一気に曇る別の教会の女性達の顔。無言になるそこの教会の女性。
あーね、と納得する私。話はそこで終わった。

みこころ、なんと軽い言葉だろうか。

私は、自分のことを考えて躊躇するのは当たり前のことだと思う。
ただ「御心」とか「神の愛」とか主を持ち出すのならば、行動に言動にそれなりの責任がいるのではないか?

ノンクリスチャンはまだその辺の分別はある。
「苦労したくないから年収○○以上」
「姑との同居はいや」
自分の愛はこの程度、と条件がはっきりしている分、紹介しやすい。

しかしクリスチャンの場合、「みこころの人じゃない」で自分に責任はなく
神様の判断に従っただけと大義名分を押し出すので、こちらとしてもやりにくいし紹介側としても不信感もわくのだ。

しばらくしてその男性は職場で出会った女性と結婚したと聞いた。
子供にも恵まれ幸せな生活をおくっているという

そこの教会の高齢女子?
派遣とかフリーターしながら、まーだみこころの人とか言ってるよ。

 

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クリスチャンの婚活(3) クリスチャンホーム希望と年収600万希望どう違う? [クリスチャンの婚活]

こう書くと清純で真面目なクリスチャン女子or牧師から
「聖書的ではない」と叱責されるのはわかっているが、

はっきり言おう。
旬を過ぎた妙齢のクリスチャン女性が「相手はクリスチャンじゃなきゃいや!」といって
「聖書的」かもしれないが、果たして愛と呼べるのか、単に高望みじゃね?とすら思ってる。

私はちょっとばかり大きい会社で働いている。
既婚者としてクリスチャン女性の婚活相談をして何年もなっていつも思うが、

女子会とかいってたむろしている高齢独身女性と、
教会にたむろしている独身女性クリスチャン女性とどう違うか、と言うと…

正直いって大差ないのである。


若さもなく美しくもなくだからといって仕事がバリバリできるなどこれといった美点もない。
適度に俗的で保守的で楽がしたい、普通の女性である。
ただ聖書読んでいるか、いないかだけの違いだ。

ただ、結婚したい対象が「年収600万以上」から「クリスチャン男子」に変わっただけで、
たぶんクリスチャンにならずに「この世」にいたら、この人達は世の中「年収300万時代」に

「年収600万以上!専業主婦!」

と鼻息荒く叫んでいるのだろうと思う。

「そうはいっても子供のためには年収は高い方がいいに決まってるじゃない。専業主婦になって
愛する旦那様と子供のために家庭を守って云々…」


ごもっともである。

ではこう言い換えてみたらどうだろう。

「クリスチャンなら神様のためにもクリスチャン男性がいいに決まっているじゃない。
クリスチャンホームになったら家庭が祝福されて、子供にも神様の愛を…」


子供という大義名分が神様にすりかわっているだけではないだろうか?

そしてこの手の輩は結婚を夢見ている割りにはいまいち行動しているようにも見えず、
あまつさえ婚活をバカにする。

クリスチャン専用の結婚相談所があるから見てみればというと
「そういうのってもてない人が行くところですよねー」とくる。
てめーだよこの聖書バカ。

たぶん結婚を求めている独身教会員が根拠としている御言葉はこれだろう。

「求めよ、されば与えられん」

確かに主は恵みを与えて下さる御方だが、
だからといって闇金ウシジマくんも真っ青な法外な利息を求めてはいけない。

闇金.jpg




聖書読んで救われたぐらいで、自分が一段上の人間になったとまあ大概は勘違いするものだが、
基本急には変わらないものだ。
変わらないことを内心気がついているから
「みこころの人()」の()の中に祈りと欲望を混同させて、一杯条件をつける。
しかし完成品は完成品とくっつくのが世の常であるから、
客観性の乏しい気の利かないブスと年増は結婚できず、
「まだ神様の時がきてないのよ」とかいう。この場合の時というのは「終末」かよ、と思う。

見るに、この手の輩はいちいち「覚悟」がない。
目の前にいる人間をとにかく愛してみせよう!という気概がない。
自分がとにかく苦労をしたくないために、一般の女性は世間知を、
クリスチャン女性は聖書を引き合いにして、理由付けをして理想の王子様がくるのを待っている。

王子様を待つのは結構だが、さも自分が信仰深いように振舞って、
世間の恋愛事情に眉をひそめて似たもの同士でわかち会う
姿は滑稽ですらある。

 

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