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発達障害児と教会と日曜学校 [ちょっとしたキリスト教の話]

例にもよって今春コミの原稿に追われているのだ。従って、ブログの更新は遅れることをご了承願いたい。

友「元気してる?」
BBA「うん一応。○○○は教会行ってる?」
友「いや行ってない。インターネットの礼拝をたまに聞くぐらい」
BBA「近所の教会は?」
友「行ってみたけど断られた。もう慣れたよ~。自分だけ礼拝行くわけにはいかないしね。預ける所もないし」
BBA「そっかごめんね」
友「なぜ君が謝るしwwwww仕方ないよー」

転勤によって引っ越したあるクリ友から久しぶりに連絡が来た。
クリ友には、軽度の知的障害及び発達障害がある子供がいる。
元々熱心な片クリ子で独身時代は毎週のように教会に行って奉仕に励んでいた。
しかし結婚後、思わぬ事態が起こった。子供が発達障害児と診断されたのだ。
多動傾向が強く、ずっと椅子に座って大人しくすることができない。人の話もじっと聞けずゲームの参加も難しい。
しばらく子供を連れて教会に通っていたが、ある日それとなく牧師に子供日曜学校の参加を拒否された。子供及び教会員から苦情が来たという。
大人だけ礼拝に参加しようとしても、夫は日曜日も仕事で礼拝を理由に預かってくれる所などどこにもない。
子供を連れて、近隣の教会を訪ねて回ってもどこも子供の障害を理由に参加を拒否される。県内の教会を探して回ったが結局受け入れてくれる所はなく親子は諦めた。

この親子だけではなく、似たような話は何件か聞いたことはある。
「三年間教会ジプシーしてた」はざらで「しばらくいたけど、やっぱり浮いちゃっていれなくなった」
あるいは「聖書のしつけ通りしたらこんな子供にはならない。何でも障害のせいにするな」と言われたこともあるという。

この話を聞いて「ひどい!」と思われる方もいるだろう。
しかし今の教会を見るに、はっきりいって、基本多動及び他害を伴う発達(知的)障害児の受け入れは一般的な教会ではなかなか難しい。
主イエスは「神のみわざがこの人に現れたからである」とおっしゃったが、御業を受け止める人間の力量はまだまだだ。
クリスチャンでも発達(知的)障害児を抱えた親は多くいるだろう。だが教会ではあまり見かけることはないかもしれない。
さすがにこのブログの賢明な読者に「主の恵みがあるからクリスチャンは健康な子を授かるのだ」という鳥頭はいないと思うが、
これははっきり言おう。教会側が初めから門前払いをしていると解した方が良い。
理由は簡単で、会堂は狭いし人数もいないしノウハウもない。
大人しい子ならば礼拝の時も邪魔にならないのでなんとかなるが、これが他動や外に出すタイプの障害児だとお手上げになる場合が多い。

だからといってこれを聖職者のせいにするのは簡単だがやや早計に過ぎる。
今の牧師というのは、年々減り続ける教会員をなんとか引き止めるのに精一杯&自分の食い扶持稼ぐのにやっとだ。余裕がある状況とは言えない。
そのため、現在いる教会員のニーズにできるだけ応える必要があり、その障害となりうる(例えば礼拝中に騒ぐ等)のは
あらかじめ排除しておくというのも教会を守る責任という意味で否定できない。

日曜学校があるじゃないか、という人もいよう。冗談じゃない。
CSの教師として一言言わせてもらうが、今の日曜学校は「くそつまらない聖書のお話&ゲーム」をありあまる我慢強さと大人びた諦念を兼ね備えた選ばれし「クリスチャン予備軍」が対象だ。この日曜学校のつまらなさを我慢できるというのは、一般の生徒よりも割と要領が良く、まじめであると解していいだろう。

カトリックには幼児洗礼というものがあるが、プロテスタントにはない。
プロテスタントでクリスチャンになるためにはある程度「救いの確信」が必要だ。「救いの確信」というの理性的判断に基づくものが多い。
そのためには聖書を読むもしくは学ぶという姿勢が重要視される。
当然日曜学校も「いかに聖書の価値観を継承してもらうか」に力点を置き、「暗唱聖句」や「聖書のお話」などで「御言葉を学ぶ」機会を多く与える。
「聖書を学ぶ」姿勢を打ち出す聖書主義の教会ではわりかしこの傾向が強い。
問題はこの「聖書の御言葉」を覚えるのに困難な児童に対する福音である。

よく厳粛な礼拝風景を見て、子供の礼拝の大切さがわかり、静かに神様を仰ぐ幸いを学ぶことができました的な文章が「理想的なあるべき教会の姿」として紹介されることがあるが、聖霊の賜物なのかそれとも教会の「人為的配慮」の結果なのか、よく考える必要がある。

たまに私も外見上では普通に見えるが話すと?という感じ、いわゆる「目に見える恵み」が見えづらい
子供障害児及びその親に対しては次第に「来ても仕方ないよね」という気持ちが抑えられなくなる時がある。
言葉で言っても通じない、命令もきかない、普通のしつけでは対応しにくい、御言葉も覚えない……という姿を見ると、内心では焦るのだ。

「神の恵みはどこに?」と。

障害が証になるどころか礼拝の妨げになる。しばらくは「善人の鉄仮面」をはめて我慢するが、実際にそういう子供と接するとごまかしがきかない。
信仰生活が長い人ほどこういう子供相手が一番面倒くさく、おためごかしも通じないのを知っているのでうまく距離を置く。
だが距離を置けない人は証にもならず礼拝の妨げになる子供を見る度にイライラする。
ここら辺で「来ても仕方がないのでは?」という損得感情に似た気持ちが沸いてくる。
そして、
「しつけが悪いんじゃ」
「祈りが足りない。聖書のしつけを実践していない」

その結果、子供と親が段々孤立していき、失望して教会を去ってしまう。

ここで落胆した親を待ちうけるのが俗にいう新興宗教でキリスト教の中でも「癒し」や「悪霊を追い払う」ことで「○○が治った!」とあおりたてる教派がある。
大体そういう所はカルトっぽくて、数年もたてば「異端撲滅」とか「この世の悪霊」とかいうあちゃーなクリスチャンになるが、
普通の教会に行って白眼視されるよりは親にとっては幸せなのかもしれないなとも思う。


子供の担当はCSの仕事だろう。奉仕引き受けたんならきちんとお前が対応しろや!とお怒りの方もいるだろう。
誠にごもっともだが私を含めてCSの教師は信仰だけはあるが専門的知識もない「素人」なので、正直くそまじめなクリスチャンホームの子供ぐらいしか対応できないのが現状だ。

ノウハウもなければ金も出ない。その上ちょっとでも子供が粗相すると遠まわしに抗議される。
「そんならお前がしつけしろや」というぐっと言葉を飲み込んで少ない人数の中報われない奉仕を続けているのだ。


私の意見としては、申し訳ないが、現在の教会でも「優秀で証になるような子供」が「世の光」っぽい所があるので、その辺はご了承いただきたい。
個人的には教会の日曜学校に時間をかけるよりは、将来一流企業の障害者枠に就職できるよう30分も惜しんで専門機関で療育をした方が子供の将来のためにはなるように思う。
あんまり日曜学校にきて普通の子供と接することで、理解を求めるもしくは子供の刺激になると過剰な「夢」は見ない方がいい。

しかし、基本悲観主義で現実主義の私でもたまにこう思うのだ。
優秀でクリスチャンホームを作って教会に奉仕する人間を量産して、どうなるのかな、と。

キリストの体である教会は美しくなければならない。確かにそうだ。
しかしやもすると考え方は「(自分の信仰に合わない)異物はがん細胞として切除する」という考えに容易に転嫁するのではないかと危惧している。
サタンを排除し、異物を排除し、この世を排除し、聖書を読むだけで最後に残るのは何だろうか。

こちらが調子にのって「この世」を排除し続けた結果、この世の方がキリスト教を無視しつつある。
たぶんキリスト教がこの世の価値観に否定的な対象として執着しているほど、この世はキリスト教をもう必要としていない

優秀でクリスチャンホームを作って教会に奉仕する人間を量産することで
世の光とする「クリスチャン功利主義」によって得られるものは何か。ここ最近考えている。


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