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クリスチャンの伝道団体(3)伝道者と伝々虫と伝強虫 [クリスチャン業界の下世話な話]

結論から言おう。

日本でリバイバルが起こるためには、たぶん相当な人数の殉教覚悟のキリスト者のただ働きがいる。
また後に書くが、日本文化との受容も真剣に考えなければならないだろう。カトリックが靖国を認めたのはその一端である。
カトリックが靖国参拝を認めたのは信仰の妥協とか多文化共存wなんぞという甘ったれた理由じゃたぶんない。
こいつら1000年、2000年かかっても日本のみならず世界とる気マンマンだからである。

もし日本文化との受容を認めないのならば、現代において、キリスト教の意義など品行方正+身を粉にして
「社会の歪みで喘いでいる人達」が生活できるように体をはって支援し続けるかしかない。
自分の懐の痛みと忍耐と時間とを持って。それでも200年はかかる。それだけキリスト教は歴史的に悪さしすぎた。

話は変わるが、とりあげた某団体の主事とやらも最近話題にしているが、日の丸・君が代問題がある。
私はこれについて今だピンとこないので言及は避ける。
個人的に賛成するのも反対するのも机上では楽な議論であるなとは思っている。
キリスト者がこの問題に反応する理由は戦時下のホーリネス殉教だろう。
この殉教の精神、先人の働きに見習って国家の非宗教化を阻止しましょうとキリスト教界で動きが
広まっている。まあ運動するのは結構である。
しかし、それが今未曾有の国難にあってパニくっている日本におけるキリスト教「伝道団体」が表立ってすることかとも思う。

仕事上の都合で元号は書けないと主張したら上司に怒られたとか君が代歌えないから公務員諦めたとか証にあるが、
隣人に仕えるどころか金もらっている仕事に迷惑かけて迫害気分とはいい気なもんである。
確かにこういう問題は、世人がキリスト教に対して最も躓きを覚えている過去の十字軍やイラク問題等に対する厳しい目を逸らすのには有効だ。
世人の共感は得られないが自分は信仰深いと「仲間内で」アピールすることもできるだろう。


しかし、私はこの未曾有の国難の段階で、「効果」も考えず福島より日の丸の話をあげることに逆に「賢さ」と「うさんくささ」を感じてしまうのだ。
たぶん、これらの伝道団体の学生は上も下も育ちが良くて賢すぎる。育ちがよくて賢い若者の欠点は自己保身を善意で補強し、また気付かない点にある。ゆえに人心を掌握できず伝道には向かない。
私のん十年の拙い信仰生活の中の経験のみの判断で恐縮だが、伝道に向く人間の第一の資質は愚直なバカであることである。伝道は真にバカの所業である。
内村鑑三というおっさんも大体似たようなこと言ってたので、まああながち間違ってはいないと思う。
なぜなら人は「可知」なものではなく「不可知」なものに引かれるからだ。バカは不可知であるからこそバカで、可知が不可知に指向する限り、不可知は可知を内包する。

己の信仰のために未曾有の国難もしくは弱者を利用するという計算高さとそれを上回り命を消費する気狂い沙汰。まさにバカの犯行である。 
真に100年語り継がれる伝道者というのは本能的にこの辺の清濁混合さが見事でそれだからこそノンクリスチャンにも語り継がれる価値があるのである。
逆に真に100年語り継がれる逆伝道者はこの順番が逆で、てめーの浅知恵で金を溜め込み、あまつさえ聖書を利用し未曾有の国難を他国に及ぼし弱者を作り出す作用がある。
ビリーなんたら親子というでんでん虫がそれである。リバイバルとかメガチャーチとか震災は神の天罰とかいって追随したい福音派の牧師は大概このでんでん虫である。
まあでんでん虫は虫で反キリスト、キリスト者の内役割があるのだが。

ちなみに聖書ばっかり勉強して世人の共感も得ることも考えず、
平和とか君が代とかピントのはずれたことばっかりいっている人のことを私は「伝強虫」と呼んでいる。


まだまだ続くよ~


クリスチャンの伝道団体(2)伝道について極論いきまーす! [クリスチャン業界の下世話な話]

まあKGKを題材にくそみそ書いたが、実は「フクシマ」でちーとは期待したのだ日本の学生「伝道」団体に。
殉教覚悟で聖書持ってフクシマの原発に入って作業員と共に作業するバカなクリスチャンの若者が一人ぐらいいるだろうと過信していたのである。
学生の本分は昔から勉強ではなくありあまる体力と向こう見ずさと反抗である。
命を生み出すことができない男には常に将来性という価値がある。女は産み育む性なのでこの場合すっこんでいるのが正しい。
時代の変わり目と国難には大体、失敗するにも成功するにも向こう見ずな若者が一人はいるもので、
その向こう見ずさによって、世界が変わるということは往々にある。2000年前から。我々が信仰する主イエスをはじめとして。その前にも。


先に「伝道」という言葉を考えてみたい。

伝道というのはキリスト教独特の言葉である。
漢字のまま読むと「道を伝える」という意味である。キリスト者にとって道とは何か。
イエスの道と答えるであろう。ではイエスの道とは何か。「死」である。
30年大工として一般人と共に生き、たった3年もの間に今までの常識を覆し、サマリア人だのらい病者だの取税人だのと接して、なんだかすごいことした義人であったのに、彼の行き先にはむき出しの死そのまましかなかった。
しかし、彼の死とキリスト者でいう復活はそれからの世界に多大なる影響を与えた。

彼の活動は死によってたとえ復活しても一過性のものとして終るはずだった。しかし使徒と呼ばれる若者がそれに続いた。
漁師だの大工だのふっつーの若者だった彼らは、身分は低いわ学はない。これが賢くて純粋ならまだ救われるものの
信仰的にも人間的にもぼんくらもいいとこで、あまつさえ師の前にトンズラをこき、命恋しさに師を裏切るという低たらくである。
しかし主の死と復活を見た彼らは、主の最後の言葉「福音」を伝えるために後縦横無尽に世界を走り回り、彼を伝えた。これが「伝道」のはじまりである。
一人の「救世主」の死と復活はあっという間に広まった。ただその事実のとんでもなさにそれも一過性で終る可能性があった。だがそうはならなかった。
ステファノの、ペテロの、ヤコブの、パウロの、その他使徒の死が補強し、それからもあまたの殉教者が出た。
殉教はそのまま強い説得力のあるツールとして、後世に語り継がれる。

「もしキリスト教が真理でなかったら、イエス様の復活が本当じゃなかったら、使徒達は殉教しなかっただろう。人は「うそ」のために死なない」

伝道者の死そのものが真理となり、イエスの死を命と時間を消費することで体現した者だけが、このきちがいじみた細い道を2000年つなぎ続けてきた。
じゃなければこんだけ人殺してきた宗教だ。とっくの昔に滅びている。
よく「宗教が悪いんじゃない。人間が悪いんだ」ととぼけるクリスチャンがいるが、
それは「人間が悪いんじゃない。麻薬が悪いんだ」と伝えているようなものである。
某超リベラルな毒舌の下の名前がまぎらわしい聖書学者曰く、
昔から1割にも満たない有名無名の命を削り隣人に奉仕したクリスチャンのために我々9割のぼんくらクリスチャンがいるのである。
1割にも満たないクリスチャンの行動により、歴史上どんなにクリスチャンがあほかましても
「でもマザーテレサみたいな人もいるしね」「キリストの教えってそんなんじゃないしね」と大目に見てもらった。またキリスト教側も大きく利用し甘えた。

近現代においてはコルベ神父、マザーテレサ、キング牧師、ボンヘッファー、賀川豊彦、石井十次、現代なら、中村哲、ビルウィルソン、奥田知志(この辺生きてるよー)、その他無名のクリスチャンが命がけで奉仕をしている。

すぐ、隣の、話したことも見たこともない何の利害もない赤の他人のために命をかける、この積み重ねこそが多様性の"寛容"さに対抗できうる有効な手段の一つである。
教義の、隣人の、真理の、異教徒のために命がけで奉仕をすることでもしくは初めて「伝道する」といえるのである。
これら名前をあげた人に「伝道する」という意識はおそらくほとんどなかっただろうが。
無論、キリスト教以外にも自らの信念、国家、その他の目的にたち、他人のために命を落とした者はたくさんいる。
これらの方のあまねく殉死がキリスト者の殉死と価値が違うわけではもちろんなく、価値が違うと言う者がいたら私は断固その意見には反対する。
断っておくが人を殺すための殉教など論外である。私は私の信念を持って、私個人の考えとしてそのような死を殉教とは認めない。
しかし「殉教」と「殉死」は違う。キリスト者は信仰によって死ぬ。なぜかというと最初に死んだ者がよりにもよって遺言でこんなこといったからである。

『全世界に出て行き、すべての作られた者に、福音を宣べ伝えなさい』」(マルコ16ー15)

私は「伝道」という言葉が恐ろしい、とすら思う。キリストの生きた道を伝えるのは重い。


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