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クリスチャンと同性愛(2)主張するなとはいわんが自分ができもせんことを人に要求するのは愛か? [クリスチャン業界の下世話な話]

さて、福音派の同性愛理解を示す資料として名高い「同性愛についての資料と牧会上の指針」というものがある。
師の深い神学的理解に基づき、かつ現在の教会の現状や社会的に同性愛者の立場を
豊富な資料に基づいたレポートである。
私の知っている同性愛者複数にこのレポートを見せたところだいたいが、

「まあ!ひどいわね☆」

「こっちの気持を考えてない」

「こんなもんじゃね?つか自分クリスチャンだったのワロスwwwww」


だったが、

クリスチャンの端くれである私の意見としては、聖書の御言葉に立つ福音派のあれがぎりぎりの限度で、むしろあれ以上逸脱してはならない、と考えている。

しかしそれでも疑問に思う点もある。

「一つは同性愛傾向が異性愛に解消された後、異性との結婚生活の中で性を享受する」

具体的に「性の享受」とはなんだろうか。
イクかイカないか快楽の話か、それとも結合の話か。受精の話か。
それはノンケでも同性愛者でもどう違うというのだろうか。
この点に関する神学の回答を浅学にして私は知らない。

性愛がない愛は愛ではないというだろうか。それでは逆に聖書の御言葉に反してしまう。
あれだけ情欲をもって異性を見てはならないこと特に婚前交渉の禁止を主張している人は、
ことさらに性欲から離れた友情的な、パートナー愛を持つことを推奨しているではないか。

なんだかんだいって既婚同性愛者もほとんどは家庭を大事にし、浮気や不倫はしない。(ばれた時のリスクが高すぎるという理由もある)
ノンケしか好きになれない同性愛者は、告白すらできず一人で思いを押さえて貞潔を保った生活を送っている場合も多い。

クリスチャンに限らず世間では同性愛者がやたらセックスしたがってると思いたいふしがあるようだが、
個人的に見る限り、結婚してないノンケとそう変わらないように見える。
が、性生活に奔放な同性愛者(特にゲイ)は確かに存在する。HIVに罹患している者も多いことは否定できない。
むろんただ単に「セックス大好きヤホー」さんもいると思うが、私が接する限り、いくら楽しくても結婚もできず子供も持てないし、「長生きしても仕方がない」と深い厭世観がかい間見える。
またそれを裏づけるように同性愛者の自殺率は極めて高い。
そして現在の教会では、そのような深い厭世観を払拭するどころか、
逆に救いを求めるものに石を投げて谷底に突き落とすステファノばりの処刑をくらわす有様だ。


結婚は神の前で神聖というフレーズがある。隣人愛と言う言葉がある。
どちらもクリスチャンが好き好んで使う言葉だ。
では我々は一生性欲を封じ込め異性を愛し結婚することを決断した同性愛者の決意が神聖じゃないものといえるだろうか。
契約結婚、偽装結婚が破綻して傷つく可能性のある人々のことを考え、社会的不利を承知の上マイノリティとして生きる彼らの壮絶な覚悟は隣人愛に近いものではないだろうか。


性愛のない愛こそが本物というのならば、性愛のない愛と結婚をしている同性愛者の方がよほど主のみこころにかなっているのではないか。


同性愛者が同性婚をもちだすのは、同性愛がタブー視され一神教の影響の強い国で
社会的な保障制度が整備されず、人権が侵害されている現状があるから声をあげるのだ。

「我々同性愛者に修行僧のような生活を強いるのならば、せめてその相棒の修行僧の葬式ぐらいは出させてくれませんかね」ということである。

社会的制度が整備されない限り、長年暮らしているパートナーが急死しても共有財産はふんだくられ、事故にあっても手術の同意書にも署名できない、集中治療室にも入れない、葬式は家族に叩き出され、自分は良くて孤独死悪くて殺人。自殺率はべらぼうに高く老後の保障もない。

そんな現状があったら私でも権利を主張する。

権利を表だって主張する者もいるが、できない同性愛者だってたくさんいる。
そもそも親にさえなかなかカミングアウトできないものなのだ。
カミングアウトの選択をせず、生きがいを求めて子供を求めて法的な保護を受けることを求めて家族を安心されるためetc...偽装結婚やら友情結婚をしようとする。誰が責められようか。

同性愛者に石を投げたり殺害して迫害しまくっているのは主に聖書的なクリスチャンであることは
この現代、多少の脳がある人間なら誰でも知っている。

私はクリスチャンなので同性婚にはやや慎重な立場をとる。
だが同性パートナーシップ制度は、整備されるべきと考えている。

制度が整わない限り、社会の結婚の圧力は強まり、いつまでも偽装結婚や友情結婚は続く。
事実に気がついた配偶者や子供は深く傷つき、それを見越して相手の気持を尊重し独身を選択した同性愛者には今度は石を投げる。

独身同性愛者に石を投げ続け、偽装結婚や友情結婚を推奨するのが教会の望みであるならばこれからもそうすればよい。

毒麦を投げるのが使命です!↓

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クリスチャンと同性愛(1)そもそもキリスト教は同性愛者をどうしたいのか? [クリスチャン業界の下世話な話]

唐突にクリスチャンのみなさん大好き同性愛の問題である。

ある学生伝道団体の主事のブログを見ていて気になるフレーズがあった。
主事はシドニーに留学していて、そこでゲイパレードを行っているゲイカップルを見て彼はこう思ったという。

「彼らは教会に来ないのかな…」

それは中国の往来で一人路傍伝道するようなものだバカぬかせこの坊ちゃん、と思ったが
それよりもふと感じたことがあった。

すなわち、クリスチャン側が同性愛者に結局何をして欲しいのか。
異性と結婚をして欲しいのか、独身でいて欲しいのか、いまいち見えてこないのである。


たぶん同性愛者がキリスト教に求めているのはたった一点だけだと思う。

「ほっといてくれ」

自分達もそっちに干渉しないから、お願いだからこっち側にも干渉してくれるな。
あんたが異性愛者でもイエスというおっさんを信じてもぜーんぜんかまわないからこっちにもかまわないでくれ。


そりゃあそうだ。しかしキリスト教徒としてはそうもいかんのだ。
それがいらんことに「大宣教命令」つーもんがあり、クリスチャンはキリスト教を伝えることが使命であって、キリスト教の教えを広めるのが「福音」=本当の幸せというか「救い」なので、ぶっちゃけ押し付けるのが「善」なのだ。
しかしキリスト者は同性愛者の主張を「主にある権利の逸脱」として隣人愛もどこへやらで、がんがん攻撃してくるので、とうとう最近では一般市民からも「キリスト教徒(特に福音派)はアホ」と呼ばれている有様である。

対してキリスト者は、

「同性愛は罪だからとっとと悔い改めて異性を結婚し家庭を持ち子供をたくさん産んでクリスチャンホームにしてね。(教会に貢献してね)
別に結婚しなくてもいいけど、それだったら一生セックスしないでパートナーがいても神父のように貞操を守ってね。
間違っても同性婚とか権利の主張なんてしないでね!え?迫害される?なんで悔い改めの機会を与えてやってんのにこっちが譲歩しなきゃなんないの?(生かしてやるだけありがたいと思え)




長い。



これが千歩譲って生涯貞操を守り子供も財産も作らないカトリックの神父や修道女がいうのなら、

「まあ、あんたらもガチで実践してるからね」(守らない奴も一杯いるけどね)

となんとなくわかる気もしないでもない。

だが、結婚するまでちーとは我慢したかもしれないが、結局、好きな女(男)と結婚できて法的にも守られて、「バコバコやりまくり中田氏しまくり子供産みまくり」の牧師やクリスチャンに言われると、なんか他人事ながら、

お前ら中途半端に俗っぽいのにえらそうなんだよと、
罪人は嫌味の一つもかましたくなる。


そもそも結婚したい同性愛の人は言われなくとも昔からバンバン異性と結婚している。

だいたい30代になったら性欲も落ちるし、ゲイの世界はかなり外見至上主義なので、年をとったらモテ度が加速度的に落ちるのだ。
ビアンの場合は、モテ度というより年をとると「経済的事情、世間体」が厳しくなるので(聖書的だね!年貢の納め時ばかりにと近場のノンケに同性愛傾向を秘めたまま結婚する。
俗にいう「既婚ゲイ・ビアン」である。この結婚を悪意ある言葉では「偽装結婚」ともいう。

異性を性的に愛することができないが、パートナーとしての愛情はある。
生涯の戦友として、または老後の保険としてノンケと変わらない夫婦生活を送り子供を育てる。
たまにどうしても我慢できない人間が、繁華街やネットで適当に性欲を発散する場合もある。
このようなことはノンケでもまたクリスチャンにも起こり得ることで、別に珍しいことでもなんでもない。

ただ、既婚同性愛者は、自分達だけ安全な土俵にたって、数少ない同性愛者達の交わりを食い散らかして、
結局家庭に帰っていくので、何の社会的保障も受けられないのを覚悟の上マイノリティとして
生きることを選択した独身同性愛者達には蛇笏の如く嫌われている。
(*既婚ゲイは子作りのためといえども異性とセックスができるので、純粋な同性愛者ではないという指摘もある)

またこの結婚で一番恐ろしいのは「配偶者バレ」である。
知恵袋などのサイトではふとしたことから旦那(妻)がゲイと知って、深く傷ついた女性(男性)の
相談が結構ある。離婚のリスクはノンケの比ではなく、ほとんどの場合仮面夫婦にもできず結婚生活は破綻する。


そのリスクを避け、自分の性癖のために家族を巻き込みたくない、自分に正直にいたい。
どうしても結婚したい子供が欲しいという同性愛者も多い。
そういう人はどうするかというと、「友情結婚」を選択肢に入れる。契約結婚とも言う。

これはゲイやレズビアン、Aセクなどのセクシャリティを持つ者がお互いの性的志向を認知した上で
結婚する
ことで、これも特に最近の傾向ではなく30年前以上前から存在し、「薔薇族」などの週刊誌の文通コーナーにもこの手のやり取りはあったことが確認されている。
ネット上での掲示板でこの手の相手募集は繁盛しているし、SNSも1000人以上の男女がこの友情結婚を求めている。
だいたいは自然妊娠を選択するようだが、まれに体外受精・人工授精、もしくは子供を作らずパートナーとしての結婚生活を送る。
これもノンケの結婚生活といささかも違いはない。

婚前の恋愛もせず、結婚しても子作り以外のセックスもせず(もちろん避妊もしない。タネがもったいないから)家庭を守り子供を育てる。
しかも清水の舞台から飛び降りるように結婚するので意外と離婚率も低い。
逆に極めて聖書的な結婚を皮肉にも同性愛者達は昔から行っていたのである。

つまり、いちいちこっちがうるさく言わなくても、

「生めよ増やせよ地を満たせ…」
「しとるがなー」
「夫婦となり男女はうんたら」
「しとるがなー」

なのである。

(2)に続く

清水の舞台から毒麦↓

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クリスチャンの婚活(5) クリスチャン女性が結婚するために [クリスチャンの婚活]

クリスチャン女性がクリスチャン男性と結婚するためには、

一に下働き、二に下働き、三、四がなくて五に下働きである。

ただし若い美人は除くである。
彼女達は祝福されていて、存在だけで価値があるのでそのようなことはしなくてもよろしい。
(ただし許されるのは20代前半までで結婚できず後半になってあわてて手伝っても遅い)

以下、クリスチャンの婚活を見てきたおばちゃんがクリスチャン男性と結婚するための最低条件を列記してみる

1 女子だけでつるまない

確かにキリスト教では男女別の行動が求められるが、つるみすぎてもいけない。
客観性がつかみにくくなるし、男性は本能で固まる女子を怖がるものなのだ。

2 神学を勉強しすぎない(研究者は除く)

自分が献身する場合を除き、何の効果もないアピール方法である。家でやれ。
すでに献身済・献身希望の男性以外あまり好まれない。
こういう女性を好むのは超一流の男性かあるいは
比較的高学歴でリベラルの考え方をもつ学者肌の若い男性である。
自分が超一流の男性に好かれる器だと確信しているなら止めはしない。
「うわ、神学を勉強している。あの人は敬虔だ」と思う男性は意外といない。
「敬虔すぎて裁かれそう」「頭でっかちで安らげない」こう思われるのがオチである。

3 教会の奉仕をそっちのけでやたらと読書会、勉強会、とかいって飛び回わらない。

こういう人は熱心に見えるが実はただ趣味として「勉強」が好きな遊び人である。
この世的にいったら仕事を手抜きして「自分磨き」をしたがる連中である。

3 20才をすぎたら多少の化粧はする(薄くがよろしい)

しみだらけ、吹き出物だらけ、隠し切れないシワなどを愛する神様の御前に捧げるのはやめよう。
どっちかというと社会人としてのたしなみである。


4 料理・裁縫・掃除はできてあたり前である。(本当は+仕事も)

このうち特に必要なものは料理掃除である。
裁縫は現代においてあまり必要性がなくなっているが
得意とすると何かと男性への好感度・奉仕に役立つ優れものである。
個々それぞれ苦手な場合もあろうが、最低限できれば問題はない。
苦手でも学ぶ・努力する姿勢を見せることが重要である。
全部できなければ、雑巾がけ、トイレ掃除、皿洗いなど誰も見ていない汚れ仕事を黙々とこなすこと。
その報われない地道な働きの中に神がおられる。

5 子供に接する姿勢を見せる。

俗にいう子供好きアピールである。
母性を印象づける極めて有効な方法である。しかも男女既婚未婚子供問わず誰も損はしない。
子供は一筋縄ではいかない。率直で妥協を許さないので信仰も磨かれる。
「子供好きアピール」するなんていやらしいとか変なプライドは捨てよう。
世間はあなたの中身なんて見てくれないし、アピールしない限り一介の凡人であるあなたに世間も興味もない

こう書くと女性蔑視とかなんとか考える人もいるだろうが、
こんなもんは目的に対するスキルがあるかどうかであって女性のプライド云々の話ではない。
求人票に「要看護師免許」と書いてあるのに「簿記2級もってます」と応募してくる方がおかしいだろう。
これらすべての項目を飛び越える離れ技がぶっちゃけ「セックス」だが、
クリスチャン女性はそれすらも与えたくないのであろう。

家庭を運営するスキルもないアピールする気もない、視覚に栄養を与えないルックスで男性に何をどう察しろというのだ。

要するにクリスチャン男性と結婚したくて少しでも点数稼ごうと思えば、聖書に向き合うより、
模範になるべき自分の教会の牧師夫人や既婚者の教会員を参考にすればいいのである。
教会が健全か健全じゃないかのバロメータはまず女性に現れる。
模範になるべき教会員がいなかったらその教会は相当病んでいる。転会を視野にいれた方がいい。

大概戦後の動乱期をクリスチャンとしてくぐりぬけた女性は忍耐強くよほど聖書を実践している。
牧師夫人にもなると、後ろにも目がついているのかと思うほどの気働きぶりである。
それだからこそ男性は結婚する価値があり、女性を身体をはって養ってきたのである。
彼女達は歓談はするがつるまず、一通り話すとすぐ率先して奉仕、台所仕事などをする。
先輩教会員は若い女性に何も言わない。彼女達は背中で覚えてきたからだ。


これらはすべて「クリスチャンの男性と結婚したい」という女性を対象に書いている。
ぶっちゃけクリスチャン男性なんて大したもんじゃないしまったくおすすめもしない。
特にクリスチャンホーム出身の男子に多いが、女性が細々働いていてもぼーっとして
王様のように座っている輩がいる。
その輩が突出して金を稼ぐ能力があるなら話は別だが、基本相手にせずともよろしい。
空気の読めない、仕事でも使えない人種である。

これらの無能を除外した上に往々に男性というものは保守的で、
しかもクリスチャンの男性は数が少ないので少しハードルをあげた。
しかし割りとどの男性にも適応しやすく有効な手段だと思う。

無論、仕事・学問にに心血を注ぐ女性やノンクリスチャンとの結婚を
視野に入れている女性はここまでしなくてもいいだろう。
身体の弱い女性もいるだろう。ムリして教会にいかなくてもいい。
奉仕なんぞはの身体の丈夫なおばちゃんにまかせて薬飲んで祈ってうまいもん食って寝てろ。
心の中で主と繋がっていればよい、今はインターネットの礼拝もある。

教会で無駄に居残ったりせず、この世の春を楽しめばいい。教会の外にも
美しく素晴らしい世界は広がっているのだから。



は?男? 貧乏でも伴侶を大切にバイトでもいいから7の70倍働け。

 

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クリスチャンの婚活(4) 結婚において主を持ち出す責任 [クリスチャンの婚活]

クリスチャンとの結婚でよく思い出す話がある。5年も前のことだ

うちの教団には毎年一回修養会がある。近隣の兄弟教会が一つの教会に集まり
礼拝、賛美、それが終ると分かち合いが始まる。分かち合いとはティータイムみたいなもんである。

修養会が開かれた教会の牧師の回りに各教会の青年達が集まった。みなそれぞれ色々話をした。

私が「教会の若い子からいろいろ結婚についてもちかけられるんですよ」といったら
「うちの教会に今日は来てないですけどいい青年がいますよ」と言った。

牧師曰く、堅実な仕事につき、スキルを高めるために資格の学校に行く勉強家で
心根もよく誠実で真面目で優しい青年であるらしい。
牧師は神学的・信仰的にも申し分なく、信仰のリーダー格として内外の尊敬を集めている人物である。
いい加減な人物評をする人ではない。
近くで話をしていた別の教会の女性達が色めきだつ。顔には出さないが興味深々といった風情だ。

写真があるというので、見せてもらった。
なるほど、イケメンである。背も高く精悍な顔立ちのリア充系で顔に卑しさがなく優しげである。
クリスチャン男性には珍しいタイプだ。

イケメンイケメンとかくが、私ははっきり女のブスも男のブサイクも嫌いである。
内面を裏切る外見はなく、外見を裏切る内面もない。
病気でもない限り、牧師が牧師夫人がぶくぶく太るなどありえないとすら思っている。

言っておくがここでのブス・ブサイクはありきたりの顔の造作の云々をといているのではない。
他人にブス・ブサイクと感じさせてしまうその意識の低さ・徳の薄さが問題なのである。

はっきりいってそこの牧師夫人はイマイチ、いやイマサンぐらいの顔の造作であった。
しかも体に障害がありうまく動くことはできない。
しかし私は夫人を一度もブスだとは思ったことはなかった。思わせない何かが彼女にはあった。
信仰の深さ、愛情の深さ、内面、気遣い、笑顔、明るさ、どれをとっても第一級の女性である。
心より尊敬している。
何十年も貧しい時から牧師を支え、複数の子供に恵まれ、
子供は大学に進学、献身するという祝福を授かっている。

しかし、その牧師が所属している教会は20代~30代の独身女性が多く、
ピーチクパーチク皆日ごろから結婚したいといっていたはずだ。現に今だってみこころの人の話をしている。

大体このレベルの若者ならとっくにふさわしい「みこころの人」がいてもおかしくないのだ。
多少イケメンで定職があったなら、しかも性格もよいときたら女性信徒達の争奪戦がはじまる。
「別に彼女がいるのか」と聞いたら、現在募集中とのことらしい。
その教会の女性達の顔を見ると、どうにもバツが悪そうである。
なんかおかしいと思った時、牧師が言った。

「親御さんが生まれつきの視覚障害者なんですよ。家族思いでよくサポートなさってます」

一気に曇る別の教会の女性達の顔。無言になるそこの教会の女性。
あーね、と納得する私。話はそこで終わった。

みこころ、なんと軽い言葉だろうか。

私は、自分のことを考えて躊躇するのは当たり前のことだと思う。
ただ「御心」とか「神の愛」とか主を持ち出すのならば、行動に言動にそれなりの責任がいるのではないか?

ノンクリスチャンはまだその辺の分別はある。
「苦労したくないから年収○○以上」
「姑との同居はいや」
自分の愛はこの程度、と条件がはっきりしている分、紹介しやすい。

しかしクリスチャンの場合、「みこころの人じゃない」で自分に責任はなく
神様の判断に従っただけと大義名分を押し出すので、こちらとしてもやりにくいし紹介側としても不信感もわくのだ。

しばらくしてその男性は職場で出会った女性と結婚したと聞いた。
子供にも恵まれ幸せな生活をおくっているという

そこの教会の高齢女子?
派遣とかフリーターしながら、まーだみこころの人とか言ってるよ。

 

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クリスチャンの婚活(3) クリスチャンホーム希望と年収600万希望どう違う? [クリスチャンの婚活]

こう書くと清純で真面目なクリスチャン女子or牧師から
「聖書的ではない」と叱責されるのはわかっているが、

はっきり言おう。
旬を過ぎた妙齢のクリスチャン女性が「相手はクリスチャンじゃなきゃいや!」といって
「聖書的」かもしれないが、果たして愛と呼べるのか、単に高望みじゃね?とすら思ってる。

私はちょっとばかり大きい会社で働いている。
既婚者としてクリスチャン女性の婚活相談をして何年もなっていつも思うが、

女子会とかいってたむろしている高齢独身女性と、
教会にたむろしている独身女性クリスチャン女性とどう違うか、と言うと…

正直いって大差ないのである。


若さもなく美しくもなくだからといって仕事がバリバリできるなどこれといった美点もない。
適度に俗的で保守的で楽がしたい、普通の女性である。
ただ聖書読んでいるか、いないかだけの違いだ。

ただ、結婚したい対象が「年収600万以上」から「クリスチャン男子」に変わっただけで、
たぶんクリスチャンにならずに「この世」にいたら、この人達は世の中「年収300万時代」に

「年収600万以上!専業主婦!」

と鼻息荒く叫んでいるのだろうと思う。

「そうはいっても子供のためには年収は高い方がいいに決まってるじゃない。専業主婦になって
愛する旦那様と子供のために家庭を守って云々…」


ごもっともである。

ではこう言い換えてみたらどうだろう。

「クリスチャンなら神様のためにもクリスチャン男性がいいに決まっているじゃない。
クリスチャンホームになったら家庭が祝福されて、子供にも神様の愛を…」


子供という大義名分が神様にすりかわっているだけではないだろうか?

そしてこの手の輩は結婚を夢見ている割りにはいまいち行動しているようにも見えず、
あまつさえ婚活をバカにする。

クリスチャン専用の結婚相談所があるから見てみればというと
「そういうのってもてない人が行くところですよねー」とくる。
てめーだよこの聖書バカ。

たぶん結婚を求めている独身教会員が根拠としている御言葉はこれだろう。

「求めよ、されば与えられん」

確かに主は恵みを与えて下さる御方だが、
だからといって闇金ウシジマくんも真っ青な法外な利息を求めてはいけない。

闇金.jpg




聖書読んで救われたぐらいで、自分が一段上の人間になったとまあ大概は勘違いするものだが、
基本急には変わらないものだ。
変わらないことを内心気がついているから
「みこころの人()」の()の中に祈りと欲望を混同させて、一杯条件をつける。
しかし完成品は完成品とくっつくのが世の常であるから、
客観性の乏しい気の利かないブスと年増は結婚できず、
「まだ神様の時がきてないのよ」とかいう。この場合の時というのは「終末」かよ、と思う。

見るに、この手の輩はいちいち「覚悟」がない。
目の前にいる人間をとにかく愛してみせよう!という気概がない。
自分がとにかく苦労をしたくないために、一般の女性は世間知を、
クリスチャン女性は聖書を引き合いにして、理由付けをして理想の王子様がくるのを待っている。

王子様を待つのは結構だが、さも自分が信仰深いように振舞って、
世間の恋愛事情に眉をひそめて似たもの同士でわかち会う
姿は滑稽ですらある。

 

うちの利息は一日一毒麦↓

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