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クリスチャンの伝道団体(3)伝道者と伝々虫と伝強虫 [クリスチャン業界の下世話な話]

結論から言おう。

日本でリバイバルが起こるためには、たぶん相当な人数の殉教覚悟のキリスト者のただ働きがいる。
また後に書くが、日本文化との受容も真剣に考えなければならないだろう。カトリックが靖国を認めたのはその一端である。
カトリックが靖国参拝を認めたのは信仰の妥協とか多文化共存wなんぞという甘ったれた理由じゃたぶんない。
こいつら1000年、2000年かかっても日本のみならず世界とる気マンマンだからである。

もし日本文化との受容を認めないのならば、現代において、キリスト教の意義など品行方正+身を粉にして
「社会の歪みで喘いでいる人達」が生活できるように体をはって支援し続けるかしかない。
自分の懐の痛みと忍耐と時間とを持って。それでも200年はかかる。それだけキリスト教は歴史的に悪さしすぎた。

話は変わるが、とりあげた某団体の主事とやらも最近話題にしているが、日の丸・君が代問題がある。
私はこれについて今だピンとこないので言及は避ける。
個人的に賛成するのも反対するのも机上では楽な議論であるなとは思っている。
キリスト者がこの問題に反応する理由は戦時下のホーリネス殉教だろう。
この殉教の精神、先人の働きに見習って国家の非宗教化を阻止しましょうとキリスト教界で動きが
広まっている。まあ運動するのは結構である。
しかし、それが今未曾有の国難にあってパニくっている日本におけるキリスト教「伝道団体」が表立ってすることかとも思う。

仕事上の都合で元号は書けないと主張したら上司に怒られたとか君が代歌えないから公務員諦めたとか証にあるが、
隣人に仕えるどころか金もらっている仕事に迷惑かけて迫害気分とはいい気なもんである。
確かにこういう問題は、世人がキリスト教に対して最も躓きを覚えている過去の十字軍やイラク問題等に対する厳しい目を逸らすのには有効だ。
世人の共感は得られないが自分は信仰深いと「仲間内で」アピールすることもできるだろう。


しかし、私はこの未曾有の国難の段階で、「効果」も考えず福島より日の丸の話をあげることに逆に「賢さ」と「うさんくささ」を感じてしまうのだ。
たぶん、これらの伝道団体の学生は上も下も育ちが良くて賢すぎる。育ちがよくて賢い若者の欠点は自己保身を善意で補強し、また気付かない点にある。ゆえに人心を掌握できず伝道には向かない。
私のん十年の拙い信仰生活の中の経験のみの判断で恐縮だが、伝道に向く人間の第一の資質は愚直なバカであることである。伝道は真にバカの所業である。
内村鑑三というおっさんも大体似たようなこと言ってたので、まああながち間違ってはいないと思う。
なぜなら人は「可知」なものではなく「不可知」なものに引かれるからだ。バカは不可知であるからこそバカで、可知が不可知に指向する限り、不可知は可知を内包する。

己の信仰のために未曾有の国難もしくは弱者を利用するという計算高さとそれを上回り命を消費する気狂い沙汰。まさにバカの犯行である。 
真に100年語り継がれる伝道者というのは本能的にこの辺の清濁混合さが見事でそれだからこそノンクリスチャンにも語り継がれる価値があるのである。
逆に真に100年語り継がれる逆伝道者はこの順番が逆で、てめーの浅知恵で金を溜め込み、あまつさえ聖書を利用し未曾有の国難を他国に及ぼし弱者を作り出す作用がある。
ビリーなんたら親子というでんでん虫がそれである。リバイバルとかメガチャーチとか震災は神の天罰とかいって追随したい福音派の牧師は大概このでんでん虫である。
まあでんでん虫は虫で反キリスト、キリスト者の内役割があるのだが。

ちなみに聖書ばっかり勉強して世人の共感も得ることも考えず、
平和とか君が代とかピントのはずれたことばっかりいっている人のことを私は「伝強虫」と呼んでいる。


まだまだ続くよ~


クリスチャンの伝道団体(2)伝道について極論いきまーす! [クリスチャン業界の下世話な話]

まあKGKを題材にくそみそ書いたが、実は「フクシマ」でちーとは期待したのだ日本の学生「伝道」団体に。
殉教覚悟で聖書持ってフクシマの原発に入って作業員と共に作業するバカなクリスチャンの若者が一人ぐらいいるだろうと過信していたのである。
学生の本分は昔から勉強ではなくありあまる体力と向こう見ずさと反抗である。
命を生み出すことができない男には常に将来性という価値がある。女は産み育む性なのでこの場合すっこんでいるのが正しい。
時代の変わり目と国難には大体、失敗するにも成功するにも向こう見ずな若者が一人はいるもので、
その向こう見ずさによって、世界が変わるということは往々にある。2000年前から。我々が信仰する主イエスをはじめとして。その前にも。


先に「伝道」という言葉を考えてみたい。

伝道というのはキリスト教独特の言葉である。
漢字のまま読むと「道を伝える」という意味である。キリスト者にとって道とは何か。
イエスの道と答えるであろう。ではイエスの道とは何か。「死」である。
30年大工として一般人と共に生き、たった3年もの間に今までの常識を覆し、サマリア人だのらい病者だの取税人だのと接して、なんだかすごいことした義人であったのに、彼の行き先にはむき出しの死そのまましかなかった。
しかし、彼の死とキリスト者でいう復活はそれからの世界に多大なる影響を与えた。

彼の活動は死によってたとえ復活しても一過性のものとして終るはずだった。しかし使徒と呼ばれる若者がそれに続いた。
漁師だの大工だのふっつーの若者だった彼らは、身分は低いわ学はない。これが賢くて純粋ならまだ救われるものの
信仰的にも人間的にもぼんくらもいいとこで、あまつさえ師の前にトンズラをこき、命恋しさに師を裏切るという低たらくである。
しかし主の死と復活を見た彼らは、主の最後の言葉「福音」を伝えるために後縦横無尽に世界を走り回り、彼を伝えた。これが「伝道」のはじまりである。
一人の「救世主」の死と復活はあっという間に広まった。ただその事実のとんでもなさにそれも一過性で終る可能性があった。だがそうはならなかった。
ステファノの、ペテロの、ヤコブの、パウロの、その他使徒の死が補強し、それからもあまたの殉教者が出た。
殉教はそのまま強い説得力のあるツールとして、後世に語り継がれる。

「もしキリスト教が真理でなかったら、イエス様の復活が本当じゃなかったら、使徒達は殉教しなかっただろう。人は「うそ」のために死なない」

伝道者の死そのものが真理となり、イエスの死を命と時間を消費することで体現した者だけが、このきちがいじみた細い道を2000年つなぎ続けてきた。
じゃなければこんだけ人殺してきた宗教だ。とっくの昔に滅びている。
よく「宗教が悪いんじゃない。人間が悪いんだ」ととぼけるクリスチャンがいるが、
それは「人間が悪いんじゃない。麻薬が悪いんだ」と伝えているようなものである。
某超リベラルな毒舌の下の名前がまぎらわしい聖書学者曰く、
昔から1割にも満たない有名無名の命を削り隣人に奉仕したクリスチャンのために我々9割のぼんくらクリスチャンがいるのである。
1割にも満たないクリスチャンの行動により、歴史上どんなにクリスチャンがあほかましても
「でもマザーテレサみたいな人もいるしね」「キリストの教えってそんなんじゃないしね」と大目に見てもらった。またキリスト教側も大きく利用し甘えた。

近現代においてはコルベ神父、マザーテレサ、キング牧師、ボンヘッファー、賀川豊彦、石井十次、現代なら、中村哲、ビルウィルソン、奥田知志(この辺生きてるよー)、その他無名のクリスチャンが命がけで奉仕をしている。

すぐ、隣の、話したことも見たこともない何の利害もない赤の他人のために命をかける、この積み重ねこそが多様性の"寛容"さに対抗できうる有効な手段の一つである。
教義の、隣人の、真理の、異教徒のために命がけで奉仕をすることでもしくは初めて「伝道する」といえるのである。
これら名前をあげた人に「伝道する」という意識はおそらくほとんどなかっただろうが。
無論、キリスト教以外にも自らの信念、国家、その他の目的にたち、他人のために命を落とした者はたくさんいる。
これらの方のあまねく殉死がキリスト者の殉死と価値が違うわけではもちろんなく、価値が違うと言う者がいたら私は断固その意見には反対する。
断っておくが人を殺すための殉教など論外である。私は私の信念を持って、私個人の考えとしてそのような死を殉教とは認めない。
しかし「殉教」と「殉死」は違う。キリスト者は信仰によって死ぬ。なぜかというと最初に死んだ者がよりにもよって遺言でこんなこといったからである。

『全世界に出て行き、すべての作られた者に、福音を宣べ伝えなさい』」(マルコ16ー15)

私は「伝道」という言葉が恐ろしい、とすら思う。キリストの生きた道を伝えるのは重い。


行ってはいけない教会というスレがある。 [ちょっとしたキリスト教の話]

いつも色つきの長い文章を書くのもしんどいのでたまにはメモ程度の記事も出していきたい。

これを世間ではお茶を濁すというが、 何度もいうが私はクリスチャンであるので年末は忙しい。コミケで。

 さて、某巨大掲示板の宗教板には「行ってはいけない教会というスレがある。
日ごろ知恵袋とか2chで情報収集するタイプの人は
「損をしたくない」気持ちが強い守りの姿勢の人が多いが、同時に利害関係のない
他人にも損をしてほしくないと思っている人が多いので、
匿名は匿名なりの親切心というものがある。

私は教会選びにこれらのリストを使ったことはないが、見た感じ…


うーん、まあ、ある程度あってる…かも?極端過ぎるけど。
とんでもないカルト教会をつかまないための自衛策といってもいい。
特に、「★新興プロテスタント教会によく見られる特徴」の欄はおもしろい。抜粋してみよう。

1 チャーチチャペル・福音・聖書と教会名につく (「日本福音ルーテル教会」などは除く)
2 正統・聖書・福音(的・主義)を自称する
3 韓国との交流・悪魔悪霊の話・弟子訓練・セルチャーチ(グループ)がある
4 車社会の地方なら老舗百貨店から離れた場所にあり第二次世界大戦後に進出してきた
5 リバイバル・フェローシップ・聖霊様・牧師先生という
6 「証する」といって自分がいかにしてイエス様を信じるようになったかという話を人前でさせる
7 ヤクザから聖職者になった人や他の宗教からきた人を広告塔にする
8 什一献金や焼香拒否のような狂信的な戒律がある
9 聖書は新改訳
ただし、戒律や多額の献金がある場合は避けるべきですが、
そうでない場合は、安心して通えるかもしれません。教会名を出して質問するとよいでしょう。


このリスト的にいったら、うちの教会なんて9のうち6つもある。全然ダメダメである。
しかし教会生活ん十年のおばちゃんにとって、今の教会はいくら赤信号といっても
それほどカルト的でもなければ、狂信的でもないといえる。
自分的に見て、特に気をつけた方がいいのが3,8だと思う。
悪くはないんだが、3,8に該当する教会は超根性がいる。
薄味の教会が物足りない人もいるので、個人の趣味といってもいいかもしれない。

重要なのは、最後の但し書きであるのだが、いい教会に当たるのはまあ要するにの問題である。
運の問題になってる時点で、もうクソなのだがそれが今のプロテスタントの現状といってもよい。

でも正直自分も福音派についてくそみそ語っているが、まあ8割~9割は大体穏健で
こじんまりとした普通の教会
である。リストを全部クリアしてても、カトリックでも自分に会わなければダメだ。

リストの是非はさておき、現代ではこういうリストが作成されるぐらい、
教会生活に疲れきって疑問があるキリスト者が多いのであろう。

もっと心配な人は色々意見があると思うが、有名ブログ「随想吉祥寺の森」の「要注意の教会・牧師」コーナー
を読んでみよう。全部読み終わったら教会に行く気が0になると思うけど。

*先の記事について色々議論があるようですが、色々長くなってきてまとめる時間がないので、続きについてはもうちょっと後になると思います。


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クリスチャンの伝道団体(1)人に汚れ仕事を押し付けといて地の塩ww世の光ww [クリスチャン業界の下世話な話]

さて、伝道についてである。
我々、クリスチャンは「伝道」という言葉をよく用いる。
そもそも伝道とはなんだろうか?
この度は、まず「悪い例」をあげて二部構成で暴論を吐くことにする。

教会に所属していればたまに「伝道団体」とかが出入りすることがあるだろう。
聖書を配ったり、路傍で語ったり、インターネット伝道という方法もある。

今回はその中で大学伝道というものを取り上げる。
誠に気の毒だが、積年の恨みでかなりぼっこぼこに書いているので心臓の悪い人は手軽にサタンと呼んでこちらにお祈りして頂いても構わない。


KGKというのがある。なんでも大学の「伝道団体」ということである。
福音派の教会なら、大体必ずこれの関係者がいるもので私も過去何人も会ってきた。
しかし、どいつもこいつもいうことが本当にたいくつというか平坦極まりなく、いや所属じゃなくて、その態度は人としてどうよ、と思うことが何年も続いて、私はこっそり「燃えない落日とかセックスしたい聖書同好会」など暗に呼んでいる。

なんというか個人個人はすごくいい子ちゃん達なのだ。この不景気の現代において聖書を読むためだけに集まるのだから顔付も見ていてよいクリスチャンのご両親に育てられたまじめで普通の性格の人達である。
なんかださい同人誌のような冊子を使用し、一生懸命受験勉強に励む学生のように勉強やら読書会やら続けている。
その姿を見るたびに「大学生になっても「聖書チャレンジ」」「終らない受験勉強」という言葉が浮かぶ。いつ試験に合格するのか楽しみである。

しかし、どこの所属にも熱心党がいるもので大体はおばちゃんの余裕ではいはい、とかましてきたが、
この団体の熱心党の奴らだけは本当に腹に据えかねることが多い。

彼らはよく自分のサークルについていかに素晴らしいか語る。

KGKは超教派の集まりで垣根をこえて聖書を…とか
KGKは皆様の祈りに支えられて60年の伝統が…、とか、
主事達は本当に一生懸命でとか、
婚前交渉についてこのテキストを読めば聖書的ですよ!
とかまあ楽しそうである。

それはそれは、と世間話ついでにクリスチャンの話を持ち出してみる。
例えば「○○大学の神学部にとても活躍しているクリスチャンがいるらしい」と言うと、

「あ、その大学リベラルだからダメですー」

終 了。それから先話も聞いてくれない。
またYMCAやカトリックを堕落しているだの、リベラルだの天皇制だの散々批判しといて、自分達の団体は創立「60周年」だからと「歴史がある」と主張する。
それは京都の企業にうちの会社は創立100年の老舗ですと吹聴して回るのになんら違いがないものだが、堕落を主張できるなら、それなりの知識があるだろうと、「でもあそこって代母さんとかあって面白いよね~」とか振ってみると、

「ダイボって何ですか?」

基本的なシステムすら把握していない。
500年、2000年、と続いてきた歴史を尊重しないで、ぽっと出の新興団体が聖書片手に自らの「正当性」をドヤ顔で主張する様はバカなのか本気なのかわからない趣深さがある。

主事達は本当に一生懸命で…、ならばそうかと一生懸命参考のためにその主事とやらのブログを見ると、

大体

「自分達はあっちこっち大学に出かけていって伝道してますよ!お祈り(献金)ください」
「どっか(大概超安全なキリスト教国)留学した。外国のKGKと交流した」
「結婚成功!子供かわいい勝ち組!」



の内容がないように加えて、皆一様にPaypal(こういうシステム取り入れるのは早いのね)を用いた献金の窓口を自分のブログの目立つところに貼り付けておいてブログのコメント欄は閉鎖したまま(ちなみにmixiなども非公開である)という「金は欲しいけど意見は聞きません対話しません」的な伝道団体にあるまじきお話にならない体質が透けて見える。

よく「用いられている」「奉仕」とかいうが、その奉仕としばらく見ていたが、大抵「献金のお願い」を全国各地に郵送するお仕事というから笑えない。

婚前交渉についてのテキストを見ると、
「マスターベーションがやめられない」「ポルノを見て性的興奮しちゃうどうしよう」

母親に筆おろしまで頼む気かてめーで解決しろ、というほどアホな悩みを大学生にもなって「わかち合う」。

話は変わるがうちの母親はノンクリだ。しかしキリスト教には寛容な方でまた読書家である。
実家に寄った際、いつもの調子でこの冊子を見せたところ、

「こんな、気持ち悪い本を年寄りに読ませてから!歪んだ性欲が透けて見えて気持ち悪い。触りたくもない。今から燃やしていい?

カンカンに怒って電話で怒鳴り込み、始皇帝以来の焚書に乗り出す始末。

結局このKGKという「伝道」団体が、人を通して冊子を通してネットを通して罪人の「私」に、ん十年かけて伝えたこととは、

主に牧師の子弟などのクリスチャンホームⅡ世、三世(ボッチぎりぎり)が親に言われてなんとなく信仰を持ったけれども、いまいち救われた実感がないあやふやなアイデンティティを補強するために、受験勉強の延長で聖書を「勉強」し、似たもの同士で傷をなめ合い、キャンプや会などを通して「サークル内でいい条件の相手」を見つけてセックスせずにいかに早く結婚するかを競争するのを最終目的とする。

んだな、という「感想」である。

まあ、学生だからよい。なんとなく不安なのはその次だ。
将来の夢はときくと、判に押したように「クリスチャンホームの形成」で、あとなんだか漠然とした「この世の光となって聖書的な福音を…云々」である。
そのために何をするのかと、ん十年職業選択を見てきたが、

大概「日曜日の礼拝を守るため」

公務員、教員、電力会社、日本型老舗企業等、医療関係、自分のうち(自営・教会)を継ぐ。
とにかく楽な仕事につくために全力で試験を受ける。またこいつら聖書まで受験勉強の要領でこなすものだからテスト系はめっぽう強い。 
献身する奴らはまあその中で骨がある方だ。
KGK出身の献身者の最大の欠点は、聖書に忠実なのは結構だが、説教が大学のレジュメのようで、まるで生きた血肉が感じにくいことである。
日曜日組んだりであの退屈な大学の一般教養「キリスト教講義」を受けた気分になる。要するにテストに強すぎるのだ。

かくてこの世に勝利し、ホワイトカラーの称号を勝ち取った。彼らに言わすとこの世と妥協せず信仰に打ち勝った勝利者であるという。職業選択は個人の自由だから別にいい。問題は、

この覇気のない夢もない若者達が福音派のいう聖書的な信仰の模範、モデルなの?

という点だ。

日曜礼拝に参加できない、クリスチャンとしての職業選択に失敗した敗者は「この世との妥協」「お金の奴隷」「本当に神様の方に向いているのか」等々、メッセージに冊子に子供、学生に60年伝えた結果がこれなのか、と十数年ここの学生を見てきたが暗澹たる気持ちになる。

まともに頭が働く読者ならわかるが、こんなものは「戦い」じゃない。
「イス取りゲーム」でイスを取っただけでさらに「信仰」名目でそれ以外をタコ殴りにしているだけである、

私は正直結構だと思っている。

このような若者が伝道wする限り、日曜日の仕事を肩代わりさせられ挙句の果てに奴隷扱いのサラリーマン、教会の奉仕にPTAや親戚の集まりをほっぽり出す主婦を見た人々は、子々孫々まで「クリスチャンにだけはならぬぞ」と決意を新たにすることだろう。
ルターのような、ジョブズ(仏教徒で残念でしたwwwwwww)のような改革者は1000年たっても現れないから
これからもどうぞ「この世に何の影響も与えない団体」「燃えない落日」として静かに沈みつつあって欲しい。つーか昇ってくんな。

 

 

 ついでにYMCAは「ちゃらんぽらんでボランティア好きが多い」のふつーのサークル、CCCは「気がつけば風のように外国にいっている」というイメージである。
前者はまあ普通の若者、後者はいつのまにかどっかに行ってるので忘れたころに「献金のお願いの封書」が回ってくるので深く関わっていない。
深く関わっていたら、今回の団体のように、糞のように槍玉にあげていただろう。運のよさに感謝するといい。

 

伝道については(2)に続く。私はクリスチャンなので週末は忙しい。記事は週明け。

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クリスチャンと同性愛(2)主張するなとはいわんが自分ができもせんことを人に要求するのは愛か? [クリスチャン業界の下世話な話]

さて、福音派の同性愛理解を示す資料として名高い「同性愛についての資料と牧会上の指針」というものがある。
師の深い神学的理解に基づき、かつ現在の教会の現状や社会的に同性愛者の立場を
豊富な資料に基づいたレポートである。
私の知っている同性愛者複数にこのレポートを見せたところだいたいが、

「まあ!ひどいわね☆」

「こっちの気持を考えてない」

「こんなもんじゃね?つか自分クリスチャンだったのワロスwwwww」


だったが、

クリスチャンの端くれである私の意見としては、聖書の御言葉に立つ福音派のあれがぎりぎりの限度で、むしろあれ以上逸脱してはならない、と考えている。

しかしそれでも疑問に思う点もある。

「一つは同性愛傾向が異性愛に解消された後、異性との結婚生活の中で性を享受する」

具体的に「性の享受」とはなんだろうか。
イクかイカないか快楽の話か、それとも結合の話か。受精の話か。
それはノンケでも同性愛者でもどう違うというのだろうか。
この点に関する神学の回答を浅学にして私は知らない。

性愛がない愛は愛ではないというだろうか。それでは逆に聖書の御言葉に反してしまう。
あれだけ情欲をもって異性を見てはならないこと特に婚前交渉の禁止を主張している人は、
ことさらに性欲から離れた友情的な、パートナー愛を持つことを推奨しているではないか。

なんだかんだいって既婚同性愛者もほとんどは家庭を大事にし、浮気や不倫はしない。(ばれた時のリスクが高すぎるという理由もある)
ノンケしか好きになれない同性愛者は、告白すらできず一人で思いを押さえて貞潔を保った生活を送っている場合も多い。

クリスチャンに限らず世間では同性愛者がやたらセックスしたがってると思いたいふしがあるようだが、
個人的に見る限り、結婚してないノンケとそう変わらないように見える。
が、性生活に奔放な同性愛者(特にゲイ)は確かに存在する。HIVに罹患している者も多いことは否定できない。
むろんただ単に「セックス大好きヤホー」さんもいると思うが、私が接する限り、いくら楽しくても結婚もできず子供も持てないし、「長生きしても仕方がない」と深い厭世観がかい間見える。
またそれを裏づけるように同性愛者の自殺率は極めて高い。
そして現在の教会では、そのような深い厭世観を払拭するどころか、
逆に救いを求めるものに石を投げて谷底に突き落とすステファノばりの処刑をくらわす有様だ。


結婚は神の前で神聖というフレーズがある。隣人愛と言う言葉がある。
どちらもクリスチャンが好き好んで使う言葉だ。
では我々は一生性欲を封じ込め異性を愛し結婚することを決断した同性愛者の決意が神聖じゃないものといえるだろうか。
契約結婚、偽装結婚が破綻して傷つく可能性のある人々のことを考え、社会的不利を承知の上マイノリティとして生きる彼らの壮絶な覚悟は隣人愛に近いものではないだろうか。


性愛のない愛こそが本物というのならば、性愛のない愛と結婚をしている同性愛者の方がよほど主のみこころにかなっているのではないか。


同性愛者が同性婚をもちだすのは、同性愛がタブー視され一神教の影響の強い国で
社会的な保障制度が整備されず、人権が侵害されている現状があるから声をあげるのだ。

「我々同性愛者に修行僧のような生活を強いるのならば、せめてその相棒の修行僧の葬式ぐらいは出させてくれませんかね」ということである。

社会的制度が整備されない限り、長年暮らしているパートナーが急死しても共有財産はふんだくられ、事故にあっても手術の同意書にも署名できない、集中治療室にも入れない、葬式は家族に叩き出され、自分は良くて孤独死悪くて殺人。自殺率はべらぼうに高く老後の保障もない。

そんな現状があったら私でも権利を主張する。

権利を表だって主張する者もいるが、できない同性愛者だってたくさんいる。
そもそも親にさえなかなかカミングアウトできないものなのだ。
カミングアウトの選択をせず、生きがいを求めて子供を求めて法的な保護を受けることを求めて家族を安心されるためetc...偽装結婚やら友情結婚をしようとする。誰が責められようか。

同性愛者に石を投げたり殺害して迫害しまくっているのは主に聖書的なクリスチャンであることは
この現代、多少の脳がある人間なら誰でも知っている。

私はクリスチャンなので同性婚にはやや慎重な立場をとる。
だが同性パートナーシップ制度は、整備されるべきと考えている。

制度が整わない限り、社会の結婚の圧力は強まり、いつまでも偽装結婚や友情結婚は続く。
事実に気がついた配偶者や子供は深く傷つき、それを見越して相手の気持を尊重し独身を選択した同性愛者には今度は石を投げる。

独身同性愛者に石を投げ続け、偽装結婚や友情結婚を推奨するのが教会の望みであるならばこれからもそうすればよい。

毒麦を投げるのが使命です!↓

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