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日本のキリスト教系プロライフもどき団体と非嫡出子(1) 区別(差別)はするけど中絶反対です!!^^ [クリスチャン業界の下世話な話]

新春明けまして今年も暴論である。

年末のコミケ主の助けにより無事新刊は完売した。これも主の御助けであると心から感謝する次第である。BLだけどな。
十二月から更新していなかったので一部のクリスチャンは胸を撫で下ろしただろうがそうはいかない。
今年もガンガンネット上にゴミを撒き散らす所存である。


まず最初にせっかちなクリスチャンのために断っておくが、おばちゃんは「婚前交渉反対派」で「結婚制度賛成派」である。
それを前提として今日の議題。

正月早々ミヤネのおっさんに女性問題発覚である。

どうみても二股したあげく水商売の女を孕ませて中絶するだろうとタカくくってたらしなかったんで仕方なく認知したでござる

の典型例です本当にry。

四年隠し通せたというのは、事務所の力もあろうがおそらく養育費系でもめて女性側からリークが入ったのだろうと推察する。
責任も取らずトンズラする男が多いなか、認知するだけでまだマシです!評価できます!なんていう声がキリスト者から聞くたびつくづく、芸能界とキリスト教は男に甘いと感じる次第であるが、今にはじまったことでもないので割愛する。

つかプロライフを標榜する人間が胎児の命がどうのこうの言う前に、その子供が大きくなって自分のHP見るかも知れないのに子供に対して「隠し子」「隠し子」連呼すんなや。
この辺の言葉のチョイスに疑問をまったく持たず、声も出せない相手(胎児)を自分の善意の前面に押し出すなどまさに卑怯そのもの、悪にも劣る。
リベラル派やノンクリをヒューマニズムに堕したとか聖書的ではないと否定するが、こんな愚鈍な善人()になるならば聖書的でなくても結構である。
若いクリスチャン諸君は、こんな福音派聖職者の「胎児の人権」論を真に受けないように。バカになります。

怒りにより脱線した。話に戻ろう。
認知といったら非嫡出子。非嫡出子といったら中絶問題である。

さて、日本にもプロライフもどき団体があり、キリスト教関係者が多数参加している。
もどきをつけたのは「プロライフ」という言葉に失礼だからだ。
聖書的にいえば、「胎児の命」が重要とのことである。しかしこれは「善人でありたい人のための」建前であろうと私は思っている。
アメリカあたりではプロライフ団体とプロチョイス団体が熾烈な争いを繰り広げていて、たくさんの議論がある。
アメリカのプロライフ団体には過激派もいて、中絶医を殺したり爆弾を仕掛けたりテロ並みの活躍をしているが、
それでも日本のプロライフもどき団体よりはまだ筋が通っていると思う。
理由は一つ、「非嫡出子の法的扱いが完全に平等」という土壌の元、議論を交わしているからだ。

私が日本のキリスト教系プロライフもどき団体の主張を眉唾ものと考えているのは、この「非嫡出子の相続問題」について、どうも言葉を濁しているというかなんの議論も主張もしない所にある。
日本における中絶問題において議論する人間が、この日本の非嫡出子の相続問題を「知らない」はずはありえないし
今時法律をかじっていれば高校生でも知っている。


だいたいこの相続格差是正の話は別にフェミニズムや人権団体のムチャぶりというわけでもなく、相続格差のある国は日本とフィリピンだけという有様。
また法律面においても、最高裁レベルでもギリギリ合憲で、ほとんどの法律関係者は「違憲前提」。
あとは家族制度の秩序が~って騒いでいる「ぼくのかんがえたさいこうのちつじょ」論者が
少子化でにっちもさっちもいかなくなって「仕方ありません」となるのを待つ段階である。
つまり主張したって、イエスキリストは神です!神なんですってば!と訴えるよりまーだノンクリスチャンに受け入れられる余地のある話なのだ。

非嫡出子の相続格差、これを二分の一から同等にするだけでも、おそらくキリスト教なんたら団体が
一年間で養子にできる人数よりはるかに多い赤ちゃんを少なくとも「中絶」から免れることができる
だろう。
もし「胎児の命」が何よりも大事ならば、非嫡出子の相続について団体として、または一個人として一家言あってもしかるべきである。
しかし何も言わない。だんまりである。なぜか。

理由は非嫡出子の相続格差を是正すると、キリスト教の存在意義の一つである結婚制度が間違いなく綻ぶからだ。

結婚制度>>>>>>>>>(超えられない壁)

>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>胎児()の命

まあつまりこういうことである。
私は別に↑の図が間違っているとも思わない。

それならそれで私がいいたいことは、別にムチャいってるわけでもない法律問題をスルーしたまま、「胎児の命」 という「声を出せない存在」を建前にして利用しないでくださいませんかね?反吐がでるから。

 ということである。

まあ旧約聖書だけならキリスト教はまだこんなに混乱しなかった。
「不倫の子」は集会にも入れず、そりゃあ惨めな扱いをされて死んだ。心あるキリスト者はご存知のことであろう。自分らが率先してやってきたことだから。

むしろキリスト教が社会の秩序であり正義である、結婚制度をはじめとする社会の秩序は胎児の命より重い、と主張するならばはっきりとそう明言した方が信者は増えるだろう。

しかし今の現状↓、

産まれた時から母子家庭。親戚、地域からも排除され、ほとんどの場合貧困で+差別侮蔑が基本仕様。
未認知だったら父親も誰かわからず認知済みでも相続は民法で半分、子供は父親の葬式にも出ることができない。


で「胎児の命が云々」と何の責任もない他人に言われても、
ぶっちゃけ、そりゃー女は堕ろすよ。自己責任で。

婚前交渉は不始末である。ならばその不始末を「自己責任で」。
自分は殺人者でいい。一生傷ついたまま、墓まで持っていく。
日本のキリスト教系プロライフもどき団体の関係者はそんな女性の自己責任論を胎児の命を建前にして否定するけど、てめーはどうだって話だ。

「差別(区別)」はそのまま。でも命は大事です!中絶反対!

 

 

なんだそれは。自己責任以下じゃねーか。


コメント(27) 

コメント 27

1クリ

今年もよろしくお願いいたします。暴論楽しみにしております。

私も今回の水谷氏の「宮根さんの隠し子騒動、女性に中絶の選択なし」の日記は変だなぁと非常に違和感を感じて読みましたが、男性の論理だったわけですね(私も男性ですが)。

端っ子さんの記事を拝見してなるほどなと思ったのと、結局水谷氏も男性目線で、「神様の視点」と言っても第3者的な視点は持てなくて言葉だけなんだろうな思ったのでした。
自分の視点を振り返ってみても反省点ですが。。。
by 1クリ (2012-01-07 01:17) 

foxtrot

乱暴に括ると、中絶問題という命の問題と非嫡子の人権の問題が有って、両方に取り組めなければ意味が無く、自己責任以下という主張に読めました。

人間万能ではありませんし、視野だって狭いことがあるでしょう。気がついたところ、できるところからやっているだけのことではないかと思います。

後者については、そこに意識なり使命を持った人が取り組めばよろしいだけのことではないかと思いました。

問題提起には感謝しております。
by foxtrot (2012-01-07 12:20) 

NO NAME

無理やり美談に仕立てようとしているのに違和感を覚えていたのですが、なるほどそういう裏があるとすれば合点がいきますね。

>foxtrotさん
その気が付いていることを意図的に無視しているのがおかしいと主張しているのではないでしょうか。ただ命の重さを啓蒙するより、非嫡子が直面する諸々の問題を解決したほうがよほど効果的な気はします。相続格差是正だけに限らず。
by NO NAME (2012-01-08 04:38) 

ピーちゃん

こんばんわ 端っこさん

端っこさんのごもっとものご意見だとわたしも同感です。

ただ、もう少し柔らかなことばで表現できればな~~~~って思います。

しかし、端っこさんが納得できなければそのままでも…


端っこさん 「沖縄キリスト福音センター(美浜教会)で何があったのか?」のブログ読んだことありますか?

少しばかり感想をお聞かせ下さい。



by ピーちゃん (2012-01-09 00:11) 

創造論は問題です。

神様の視点というのを臆面もなく書けることが
by 創造論は問題です。 (2012-01-12 20:22) 

創造論は問題です

「神様の視点」というのを臆面もなく書けることが空恐ろしいです。

人間が神様の視点をわかったつもりで神になり代わり発言する恥知らずぶりが恐ろしいですよ。

そういうことを平気で言えるのは、一般社会ではとても痛い人ですよ。
常識万能とは思わないけれども、一般社会を知らずして宣教なんかできるわけがないです。
異論のあるものは火あぶりにすればいいというもんじゃない。そんなことをしたら日本人の99%を火あぶりにしなければならない。

この水谷氏は最近のブログでも「クリスチャン三年説」というのを鬼の首でも取ったように振り回していましたが、「教会には何の問題もないんだが、三年でクリスチャンを卒業するたわけ者がいるんで、困るよね」という論調なのでドン引きしました。

教会人に自己意識とか己を顧みるとか羞恥心が欠落しているから、心ある日本人は教会に近づかないということに早く気づくべきです。


by 創造論は問題です (2012-01-12 20:37) 

創造論は問題です

追記ですが、「福音提示の単純化」をやっているのは福音派なのですが、まったくその自覚がないところで終わりのない堂々巡りの議論をしているのが痛いです。
鹿嶋春平太氏のブログの「聖句主義」を読めば、福音派が陥っている出口のない「穴」がどういうものか、誰にでもわかるはずです。

 「よく考えてみれば、聖書の記述のほとんどは「いかにして救われるか」ではなく「救われた者が、いかに生きるべきか」についてです。そのバランスから考えると、牧師の仕事も、「未信者をいかに救いに導くか」より「救われた者をみことばに生きるようどう導くか」の方が重要なのかもしれません。」
これも、とある某福音派の牧師の書かれたものですが、「聖書の六法全書化」「マニュアル化」とはこういうことかと思います。

聖書の中心思想を決めるのは記述の分量ですか!?。

一文字を一グラムとして、スーパーコンピューターで聖書の文言すべての計量を行い、重量に従って最終的な絶対教理を決めるといいと思います。
新約聖書では、パウロの教訓教示的な部分が多いので、福音派好みの道徳的キリスト教が出来上がることでしょう。良かったですね。
(もちろん冗談ですが、アメリカの福音派ならやりかねないですね。笑)


by 創造論は問題です (2012-01-12 22:52) 

創造論は問題です

補足ですが、上記の「「神様の視点」というのを臆面もなく書ける」というのは「1クリ」様に言ったのではなく、くだんの牧師に言っております。念のため。

しかし、なんですね、こういう牧師という職業の方々はどうして「正しいこと」を臆面もなく主張できるんですかね。
そんなことはいい大人には恥ずかしくてできませんよ。
「悔い改め」とか、「神に立ち返れ」とか、「みことばに生きるように導く」とか、仮に自己意識というものがあるならば、とても恥ずかしくて軽々しく口にすることはできませんよ。
そういうまるで自分を神の座に置くような「臆面もなさ」がどうかしてるんじゃないかと思うわけです。
いい大人が聞いたら顔をしかめるような恥じらいのなさにゲンナリして教会に近づきたくないというのが大多数の日本のおっさんやシャイな青年たちの率直な気持ちじゃないかと思います。


by 創造論は問題です (2012-01-12 23:17) 

1クリ

>創造論は問題です さま
おっしゃること、とてもよくわかります。

>こういう牧師という職業の方々はどうして「正しいこと」を臆面もなく主張できるんですかね。
>そんなことはいい大人には恥ずかしくてできませんよ。

今私が引っかかっていることもまさにそれで、福音派の牧師はそれを堂々と言うだけでなく、彼らが信じていることそして考えていることには一点の誤りもなく正しいと思い込んでいる節が見えることです。

>そういうまるで自分を神の座に置くような「臆面もなさ」がどうかしてるんじゃないかと思うわけです。

ですね。聖書が最も忌避しているのはまさにそこなのに、福音派はなぜかそこに突き進んで顧みることがない(ように見える)ので、人々が聖書の言葉に飢え乾いて救いを求めて教会にやってきても、「何なんだ。この自分たちだけが正しいと思い込んでいる集団は」と思うんじゃないかと感じています。

>新約聖書では、パウロの教訓教示的な部分が多いので、福音派好みの道徳的キリスト教が出来上がることでしょう。

私もここが今最も問題だと感じています。それでいて「旧約は律法的」とはよく言えたものだと常々思います。パウロ先生熱心なユダヤ教徒だったんですよね。
by 1クリ (2012-01-12 23:55) 

創造論は問題です

1クリ様に同感です。

ある種の(福音派の)クリスチャンにとっては、神様や隣人(ほぼ異教徒の)よりも、「自分たち(だけが)正しい」ということが大事なんでしょう。

そういう「商売」の人に臆面もなく「悔い改めろ」とか言われたくない99%の普通の日本人のオッサンを私は断固支持します。



by 創造論は問題です (2012-01-13 02:24) 

創造論は問題です

いい大人に「悔い改めろ」とか「みこころに従って歩め」とか、生活指導のようなことを堂々と言うことができる教職者の神経には閉口します。

誰でもよくよく自分を顧みるならば、いかにみこころに従えないものか、ただただ恵みを踏み倒すばかりの人間にすぎないことが痛いほどよくわかるのではないでしょうか?。

そのような自分を神の代理人の座に座らせて、どうして人を「指導」することができるのでしょうか?。

それはルカの福音書の神殿での徴税人とファリサイ派のたとえに出てくるファリサイ派にそっくりなのですが。
by 創造論は問題です (2012-01-13 02:28) 

1クリ

>ある種の(福音派の)クリスチャンにとっては、神様や隣人(ほぼ異教徒の)よりも、「自分たち(だけが)正しい」ということが大事なんでしょう。

ですね。。。「自分たちが正しい」というのは幼稚だなとは思いつつもそれだけならまだ良いんですけど、大抵は「自分たちだけ正しくて他は正しくない。」となりがちなようです。

これが同じクリスチャンに向かうと
・カトリックは偶像崇拝とかするから「正しくない」
・日基(って言いますよね)や聖公会はお酒やタバコをするから「正しくない」
というのを福音派の教会ではよーく聞きました(正教会はほとんど話題にも上がりませんし)。

でもそれはおっしゃる通り
・人を平気で裁くのは福音書に出てくるファリサイ派と同じじゃないの?
ということですよね。自分をすごく高みにおいて他人を見下しているわけですから。

その割に聖書の知識は新約のわかりやすい部分だけかヨハネ3:16程度ですし、キリスト教の色々なことも勉強しないので、ノンクリスチャン(と言いますよね)から色んなこと聞かれても答えられなくて「教会にきて牧師に聞いて」になったりして、それじゃ大好きな言葉の「証し」にならないんじゃないの?と思ったり。。。
by 1クリ (2012-01-13 23:18) 

創造論は問題です

 >大抵は「自分たちだけ正しくて他は正しくない。」となりがちなようです。

これは、鹿嶋春平太氏の指摘される「教理主義」に原因があると思います。
「教理主義」によって、むしろ「本当に(この教理は)正しいのだろうか・・」という疑問を無意識に押し込めることによって心の安定を保とうとします。
しかし、人間というものは、そうなればなるほど「自分たちだけ正しくて他は正しくない。」と思い込もうとするし、またそう主張するようになります。
「疑問を持ってはいけない」「疑問を持つことイコール救いから滑り落ちることだ」という強迫観念によって不自由になってしまっているのです。

下記、鹿嶋春平太氏のブログより引用します。

第二は(引用者注:教理主義は)、専門家が一般信徒に正統考える唯一の解釈を供給する、という行き方です。ここに第四の迷路が潜んでいます。これは、世界のあちこちに広く現れやすい迷路です。

 人間というものは「色々解釈の余地があるといっても、創主の言葉ならば、真理は一つであり、正しい解釈が一つあるはず」と考えるものだからです。そして、そこから「それを見出すのが一般信徒には困難であるならば、賢人の知恵に期待しよう」という考えが出てきます。

 その賢人は、具体的には、神父、牧師、神学者などの僧職者ということになります。彼等に別格の権威を与えて、その結論として出してくる解釈に権威を感じて従おう、という行き方です。

 そうすると、信徒は、その解釈を、何故正統となるかの理由がよくわからないままで、受け入れることになります。これは精神的には不安定な状態です。正統と言うことに確信がもてませんから。そこで、教えられた解釈を正統とする意識が揺れないように、安定的に保つために、他の解釈に耳を開かなくなっていきます。

 これは、自己の教師、教会、教派にしがみつくことにつながっています。この状態は、自由ではありません。それと正反対の、知的束縛、奴隷化の方向に向かっている状態です。

by 創造論は問題です (2012-01-14 09:35) 

1クリ

大変勉強になります!

拝見してまして、研究者とか理系な訓練をされている人だと「色んな説や意見があるけどその中で色々検討した揚げ句とりあえずこれを選ぶ、でも他も一応視野に入れているよ」ということができるんだろうなぁと思いました。

さらにはそれを利用して、そうでない方々の目の前に「これ(だけ)が絶対!」ってどーんと置いてしまうので、それに刷り込まれてしまうんだろうなぁと思いました。

今は断言して物を言う方が,その質が大したことなくても何となく信頼できそうに見えてしまったりしますものね。
by 1クリ (2012-01-14 23:46) 

山あり谷あり

「福音派」にもいろんな方がいて幅があるのに、分かったように「福音派」がと、すべてをレッテル付けして一刀両断、裁いているところが「創造論」さんが非難している福音派と同じだね。「創造論」さんは、「福音派崩れ」というところなんだろう。
by 山あり谷あり (2012-01-18 09:55) 

創造論は問題です

「福音派」にもいろんな方がいて幅があることは認識しております。

(「一キリスト者からのメッセージ」や「しおんややりべらるっぽい掲示板」など、他のところにもコメントしていますが、)最近は福音派の中にも原理主義的なトンデモ論を一部反省しようという流れがあることは認識しております。

しかし、「山あり谷あり」さんも認められているように「すべてをレッテル付けして一刀両断、裁いている」=「独善性」が、いわゆる福音派にあることを問題としています。

いわゆる福音派教会が、「すべてをレッテル付けして一刀両断、裁いている」原理主義であり、福音理解を歪め、ひいては人権抑圧的な問題を多発させていることを、るる指摘しているつもりです。

ところで、「自分たちと同じ信仰を信じないならば地獄行きである」という単純な原理主義から脱しているならば、それはもはや「福音派」とは呼べません。

そのような意味で、狭隘な「正統主義」に固執する「典型的な福音派」のあり方を問題としていることをご理解下さい。






by 創造論は問題です (2012-01-23 11:50) 

山あり谷あり

う〜ん、そうかな〜。
それは「創造論問題」さんのとらえ方が狭すぎると思います。
昔から福音派には、原理主義的なものへ同化したくないグループがあります。むしろ米国の原理主義的なグループに距離をおきたいために、福音派が分かれてきた敬意があります。日本では、それがごっちゃになって、ひとくくりにされているのです。
マクグラス著『キリスト教主義の将来と福音主義』『キリスト教の将来』などを読んでくださいな。
マクグラスは福音派の学者です。
by 山あり谷あり (2012-01-24 00:09) 

創造論は問題です

「山あり谷あり」さん

ご教示有難うございます。

福音派にも原理主義的ではない志向を持つグループがあることは現代神学概論的な本で読んだ事があります。

今後、より正確を期するために、「福音派」という文言を「原理主義的な福音派」という文言に改めることにいたします。

『キリスト教主義の将来と福音主義』を早速、読んでみます。

しかし、福音派というのが、そもそも「自由主義神学」に反発して出て来たことを考えると、「脱原理主義の福音派」というのは、ある意味、内実は「脱=福音派」であり、実際は「福音派を名乗っているリベラル」ではないかとも思われますね。

by 創造論は問題です (2012-01-25 12:59) 

山あり谷あり

お返事、ありがとうございます。

>福音派」という文言を「原理主義的な福音派」という文言に改め

これは正しくありません。「福音派内の原理主義的グループ」です。福音派(グループの集合体)は幅があるので。

>「脱原理主義の福音派」というのは、ある意味、内実は「脱=福音派」であり、実際は「福音派を名乗っているリベラル」ではないかとも思われますね。

これも正しくないですね。脱原理主義で生まれた「新・福音主義」(理念)は、今日では「福音主義」(英語圏)と言われますが、非福音主義の人が、福音主義と原理主義をひとくくりにして、「福音派」(グループ)という名前を与えたのです。これらを理解するには、歴史的視点から見なくてはなりません。
『キリスト教主義の将来と福音主義』をぜひ読んでください。歴史がたどっています。健闘を祈ります。

by 山あり谷あり (2012-01-25 21:46) 

山あり谷あり

創造論問題さん、付け加えます。

原理主義は英語でファンダメンタリズムですが、これは日本で根本主義とも訳されます。『キリスト教主義の将来と福音主義』では、根本主義と訳されています。困ってしまいますが、根本主義は神学的傾向、原理主義は政治的傾向を指すと理解してはどうでしょうか。

また原理主義にも、穏健な原理主義、ウルトラ(超)原理主義、ノンポリ原理主義等、立場が異なる人たちがいるので、一言で片付けてしまわないよう、ご注意ください。
by 山あり谷あり (2012-01-26 09:39) 

創造論は問題です

山あり谷ありさん

「福音派」もいろいろ大変みたいですね。 笑

この際、「福音派」というのは外部の者には煩雑でわかりにくいので、「福音派」ではなく、それぞれ「福音派内の原理主義的グループ」、「福音派内の非原理主義的グループ」を名乗って下さればわかりやすくてありがたいです。

福音派には幅があるということですが、では、福音主義の福音派である「福音派内の非原理主義的グループ」は、「万人救済」、「他宗教の信者も救われる」ことをお認めになるのでしょうか?。

もしも、そうでしたら「福音派内の原理主義的グループ」と名乗るよりも「リベラル」を名乗った方がわかりやすくてよろしいかと思います。

山あり谷ありさんご本人は、いかがですか?。

それにしても、外部から見ていると、定義や名称にこだわればこだわるほど、「正統」とか「正しさ」ということにある種の「強迫観念」のようなものを持っておられるようにしか感じられないのですが。
こういうところがアレなんですよ。
創価学会とホッケ講(ともうひとつ何かありましたが)日蓮系のカルトの間の内部抗争に似てますね。
そう言えば、以前「とにかく『人間革命』を読め」と迫られたことがありましたが。笑
とにかく原理主義のひとは熱いですね。笑
by 創造論は問題です (2012-01-26 10:57) 

創造論は問題です

「ウィキペディア」より  

新福音主義(ネオ・エバンジェリカリズム、Neo-evangelicalism)とは、伝統的、正統的なプロテスタント(キリスト教根本主義、Fundamentalist)の中で20世紀中旬より興った潮流である。
新福音主義は、分離主義(separatism)の立場を採らない。また学問的なアプローチを持っている。
歴史 [編集]

その代表は、世界的な福音主義(w:Evangelicalism)の伝道者として認められるビリー・グラハム、アメリカ合衆国の神学者カール・ヘンリー、世界的な福音主義神学者ジョン・R・W・ストット である。
自由主義神学とキリスト教根本主義の間に新しい領域を開いた。
自由主義神学は、神学的に正統ではないが、文化と学問においては定評がある。
キリスト教根本主義は、神学的に正統である反面、分離主義と反知性主義を採ることがある。
新しい福音主義とは、正統的でありつつ、学問的である、世界に向けられた福音主義である。
関連 [編集]
by 創造論は問題です (2012-01-26 11:00) 

山あり谷あり

「ウィキペディア」、なかなか正確ですね。そうなんですよ。

創造論問題さんは、わかりにくいとおっしゃってますが、これまでの紋切型から抜け出そうとせず、調べもせず、レッテル張りするのは、知性がある人とは思えません。それこそ反知性主義にとどまっています。

日本のリベラル側の人は、ほとんど偏見を持っています。俗論に頼っているのですね。彼らは自説にこだわり、新しい目で見ようとしません。日本のメディアもリベラル側からの情報を頼りに、レッテル張りをしています。戦後のキリスト教史を、ほとんど彼らは知らないのです。

>「福音派内の非原理主義的グループ」「万人救済」、「他宗教の信者も救われる」ことをお認めになるのでしょうか?。

まさか、そんなことをしたら、キリスト教ではなくなります。万人救済はなら、キリストを信じる意味がどこにあるのでしょう? 
他宗教の人が救われるかは「救いの定義」によりましょうが、聖書をお読みになれば分かるでしょう。

>定義や名称にこだわればこだわるほど、略 「強迫観念」のようなもの

そんな脅迫観念はありません。むしろ創造論問題さんが、「あまりに乱暴、偏見、視野の狭いの定義付け」でレッテル貼っているので、「それはないよ」と注意を促しただけです。

福音主義は、「自由主義神学とキリスト教根本主義の間に新しい領域を開いた」のですが、日本のリベラルな人は、この「キリスト教根本主義」と「新しい領域(福音主義)」をひとくくりに「福音派」と名付けて(日本の一般マスコミも)ごっちゃにしています。

悲しむべき思考停止、反知性主義ですね。創造論問題さんも、目覚めてほしいです。言論活動は正確を期しましょう。

by 山あり谷あり (2012-01-29 22:48) 

創造論は問題です

山あり谷ありさん。

いろいろご教示いただきましたが、結局のところ、「福音主義」も「根本主義」同様「万人救済」を頭から排除するような「聖書の単純化」をしておられるようですので、「福音主義」だろうが「根本主義」だろうが、私にとっては何も変わりありません。

福音主義と根本主義を「ひとくくり」にされることを反知性主義とおっしゃいますが、それは正しい意味で「ひとくくり」されているだけのことです。
世間、他人の評価は意外に侮れないものですよ。

福音主義も根本主義も、本質は「心(アガペー)なき原理主義」ということであり、まったく何の変わりもありませんよ。

「万人救済」についての見解を、「しおんややりべらるっぽい掲示板」に何度か書きましたのでご参考いただければ幸いです。

ここでの論争は当ブログの趣旨から外れますので、できれば、「しおんややりべらるっぽい掲示板」の方で反論していただければと思います。

by 創造論は問題です (2012-02-01 10:11) 

山あり谷あり

どんな宗教や信仰を持とうが完璧に魂が救われるというお考えなら、イワシを信じても救われるのでしょうか?

それはヒューマニズムであって、主イエスの教えから全くはずれた人間の主観にもとづくものです。この場での議論に参加するお立場の方ではないのですから、ユニバーサリストの集まりでご議論ください。
そして、キリスト教書を読んで勉強なさらずともいいでしょう。

ではさようなら。ありがとうございました。
by 山あり谷あり (2012-02-01 13:43) 

創造論は問題です

「これが主イエスの教えだ」と断言できる傲慢さには閉口します。

まさしくそれこそが法律的思考による福音の一面化、単純化ですが、そう断言することで、ご自身を神の座に置いていらっしゃるのではないでしょうか?。

「しおんややりべらるっぽい掲示板」でも紹介しましたが、「ニュッサのグレゴリウスのブログ」で紹介されていた、万人救済についての論考「「すべての者の救い」に望みをかけるべきか」から下記に引用します。

オリゲネスは彼の批判者たちの先鋒であるヒエロニムスとユスティニアヌスには必ずしもうかがえない謙遜さを備えていました。彼は神学上の深遠なテーマについての著作で繰り返し、神の神秘の前に敬虔な驚異の念で頭を垂れています。自分がすべてのことについて答えを持っているとは一瞬たりとも、想像すらしません。この謙遜さはとりわけ彼が終末と未来の希望について語るときに顕著に現れます。「これほど難解な事柄を理解するには…、確実な見解を提示すると言うよりは、論究し、探求するという形で、恐れの念を抱きつつ、注意深く述べるつもりである」。



by 創造論は問題です (2012-02-01 20:04) 

田中

何より命が大切!だから中絶大賛成!
優しさを勘違いした馬鹿どもにうんざりだぜー
by 田中 (2016-01-09 06:20) 

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