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クリスチャンの伝道団体(2)伝道について極論いきまーす! [クリスチャン業界の下世話な話]

まあKGKを題材にくそみそ書いたが、実は「フクシマ」でちーとは期待したのだ日本の学生「伝道」団体に。
殉教覚悟で聖書持ってフクシマの原発に入って作業員と共に作業するバカなクリスチャンの若者が一人ぐらいいるだろうと過信していたのである。
学生の本分は昔から勉強ではなくありあまる体力と向こう見ずさと反抗である。
命を生み出すことができない男には常に将来性という価値がある。女は産み育む性なのでこの場合すっこんでいるのが正しい。
時代の変わり目と国難には大体、失敗するにも成功するにも向こう見ずな若者が一人はいるもので、
その向こう見ずさによって、世界が変わるということは往々にある。2000年前から。我々が信仰する主イエスをはじめとして。その前にも。


先に「伝道」という言葉を考えてみたい。

伝道というのはキリスト教独特の言葉である。
漢字のまま読むと「道を伝える」という意味である。キリスト者にとって道とは何か。
イエスの道と答えるであろう。ではイエスの道とは何か。「死」である。
30年大工として一般人と共に生き、たった3年もの間に今までの常識を覆し、サマリア人だのらい病者だの取税人だのと接して、なんだかすごいことした義人であったのに、彼の行き先にはむき出しの死そのまましかなかった。
しかし、彼の死とキリスト者でいう復活はそれからの世界に多大なる影響を与えた。

彼の活動は死によってたとえ復活しても一過性のものとして終るはずだった。しかし使徒と呼ばれる若者がそれに続いた。
漁師だの大工だのふっつーの若者だった彼らは、身分は低いわ学はない。これが賢くて純粋ならまだ救われるものの
信仰的にも人間的にもぼんくらもいいとこで、あまつさえ師の前にトンズラをこき、命恋しさに師を裏切るという低たらくである。
しかし主の死と復活を見た彼らは、主の最後の言葉「福音」を伝えるために後縦横無尽に世界を走り回り、彼を伝えた。これが「伝道」のはじまりである。
一人の「救世主」の死と復活はあっという間に広まった。ただその事実のとんでもなさにそれも一過性で終る可能性があった。だがそうはならなかった。
ステファノの、ペテロの、ヤコブの、パウロの、その他使徒の死が補強し、それからもあまたの殉教者が出た。
殉教はそのまま強い説得力のあるツールとして、後世に語り継がれる。

「もしキリスト教が真理でなかったら、イエス様の復活が本当じゃなかったら、使徒達は殉教しなかっただろう。人は「うそ」のために死なない」

伝道者の死そのものが真理となり、イエスの死を命と時間を消費することで体現した者だけが、このきちがいじみた細い道を2000年つなぎ続けてきた。
じゃなければこんだけ人殺してきた宗教だ。とっくの昔に滅びている。
よく「宗教が悪いんじゃない。人間が悪いんだ」ととぼけるクリスチャンがいるが、
それは「人間が悪いんじゃない。麻薬が悪いんだ」と伝えているようなものである。
某超リベラルな毒舌の下の名前がまぎらわしい聖書学者曰く、
昔から1割にも満たない有名無名の命を削り隣人に奉仕したクリスチャンのために我々9割のぼんくらクリスチャンがいるのである。
1割にも満たないクリスチャンの行動により、歴史上どんなにクリスチャンがあほかましても
「でもマザーテレサみたいな人もいるしね」「キリストの教えってそんなんじゃないしね」と大目に見てもらった。またキリスト教側も大きく利用し甘えた。

近現代においてはコルベ神父、マザーテレサ、キング牧師、ボンヘッファー、賀川豊彦、石井十次、現代なら、中村哲、ビルウィルソン、奥田知志(この辺生きてるよー)、その他無名のクリスチャンが命がけで奉仕をしている。

すぐ、隣の、話したことも見たこともない何の利害もない赤の他人のために命をかける、この積み重ねこそが多様性の"寛容"さに対抗できうる有効な手段の一つである。
教義の、隣人の、真理の、異教徒のために命がけで奉仕をすることでもしくは初めて「伝道する」といえるのである。
これら名前をあげた人に「伝道する」という意識はおそらくほとんどなかっただろうが。
無論、キリスト教以外にも自らの信念、国家、その他の目的にたち、他人のために命を落とした者はたくさんいる。
これらの方のあまねく殉死がキリスト者の殉死と価値が違うわけではもちろんなく、価値が違うと言う者がいたら私は断固その意見には反対する。
断っておくが人を殺すための殉教など論外である。私は私の信念を持って、私個人の考えとしてそのような死を殉教とは認めない。
しかし「殉教」と「殉死」は違う。キリスト者は信仰によって死ぬ。なぜかというと最初に死んだ者がよりにもよって遺言でこんなこといったからである。

『全世界に出て行き、すべての作られた者に、福音を宣べ伝えなさい』」(マルコ16ー15)

私は「伝道」という言葉が恐ろしい、とすら思う。キリストの生きた道を伝えるのは重い。


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コメント 4

しおんややりべらるっぽい掲示板管理人

確かに伝道という言葉が、最近軽いですね。
キリストを伝えるというより、献金目当てではないかと勘ぐりたくなります。
献金、清い教会生活、信仰義認の形骸化などによって信徒をつまずかせる一方で、伝道と言われても素直には従えないでしょうね。
by しおんややりべらるっぽい掲示板管理人 (2011-12-01 20:09) 

しおんややりべらるっぽい掲示板管理人

確かに最近伝道という言葉が軽いですね。
キリストを伝えるというより、献金目当てではないかと勘ぐりたくなります。
by しおんややりべらるっぽい掲示板管理人 (2011-12-01 20:17) 

しおんややりべらるっぽい掲示板管理人

確かに最近伝道という言葉が軽いですね。
キリストを伝えるというより、献金目当てではないかと勘ぐりたくなります。
献金、清い教会生活、信仰義認の形骸化などによって信徒をつまずかせる一方で、伝道はないでしょうね。
by しおんややりべらるっぽい掲示板管理人 (2011-12-01 21:35) 

安里吉隆

沖縄の安里と申します。記事読まさせていただきました。厳しい言葉の数々ですが、それは端っ子さんが福音を真剣に受け止め、主の教えを真剣に実践したいという気持ちの表れであると感じ感銘を受けました。私は気が弱いので、暴言は吐けませんが、福音に真剣に生きようとする端っ子さんの姿勢に沢山のことを気づかされ、学ぶことが出来ます。
by 安里吉隆 (2011-12-31 20:03) 

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